ポーレット・ダルティ(Paulette Darty)の名で知られたポーレット・コンベ(Paulette Combes、1871年1月2日 - 1939年12月9日)は、フランスの歌手。
生涯
ポーレット・ダルティは、歌手として「スローなワルツの女王 (La Reine des Valses lentes)」という異名をとるようになるずっと前に、音楽院でピアノを学び、まずピアニストとしてデビューした。
1890年、まだ無名であったダルティは、オペラ歌手ジルベール・ド・ビダール(Gilbert de Bidart)、通称ド・バルディ(de Bardy)と結婚した。
ヴィシーのエデン座(l'Eden)でいろいろなオペレッタで様々な役を演じた後、1895年ころ、当時スカラ座(Scala)のところにあったエルドラド座(l'Eldorado)に出演していたころから名前が知られるようになった。
1900年、作曲家エリック・サティは、ダルティのためにアンリ・パコリ(Henry Pacory)の詞に曲をつけ、「ジュ・トゥ・ヴー(あんたが欲しいの)」を作曲した。ダルティのレパートリーとなったこの曲は、その後、男性歌手用の歌詞が書かれたり、サティ自身がピアノ曲に編曲したりと、様々な形で広まっていくことになった。
ダルティは、1901年の「アムルーズ (Amoureuse)」や、1905年の「ファシナシオン (Fascination)」が、シャンソンのスタンダードになることに貢献したが、その詞はいずれもモーリス・ド・フェラウディ(Maurice de Féraudy)が提供していた。この頃には、ダルティの歌う曲の楽譜集なども出版され、その中にはダルティ自身が作曲した曲も取り上げられた。
ダルティは女優としても舞台に立った。1903年には、ブッフェ=パリジャン劇場(Théâtre des Bouffes-Parisiens)で、喜歌劇『フロロドーラ (Florodora)』のドロレス(Dolorès)役を演じた。
1902年に夫ジルベールが亡くなり、ダルティは未亡人となったが、その後、彼女は30代半ばで一線から退き、1905年ないし1908年には表舞台から姿を消した。
ダルティは、1939年12月9日にパリで亡くなり、近郊のリュエイユ=マルメゾンに葬られた。
出典・脚注
外部リンク
- Du Temps des cerises aux Feuilles Mortes
- Le Hall de la chanson