藤原 経通(ふじわら の つねみち)は、平安時代末期から鎌倉時代の公卿。正二位権大納言。高倉大納言と号す。父は権大納言按察使藤原泰通、母は権大納言藤原隆季の娘。子には氏通、成恵、女子(藤原高実の室)がいる。家門として氏通以後は続かなかった。

経歴

以下、『検非違使補任別巻』、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

  • 安元2年(1176年)誕生。
  • 治承2年(1178年)1月15日、叙爵。
  • 文治5年(1189年)1月18日、従五位上に昇叙。同年7月10日、侍従に任ぜられる。
  • 建久4年(1193年)1月29日、加賀介を兼ねる。
  • 建久5年(1194年)10月13日、右少将に任ぜられる。
  • 建久6年(1195年)1月5日、正五位下に昇叙。同年2月2日、越後権介を兼ねる。
  • 建久8年(1197年)1月6日、従四位下に昇叙。少将は元の如し。
  • 正治2年(1200年)1月7日、従四位上に昇叙。同月22日、伊予介を兼ねる。
  • 建仁2年(1202年)7月23日、右中将に転任。同年8月13日、左中将に転任。同年11月19日、正四位下に昇叙。
  • 元久2年(1205年)1月29日、土佐介を兼ねる。
  • 建永元年(1206年)母の喪に服し12月30日に復任。
  • 承元2年(1208年)7月8日、蔵人頭に補される。
  • 承元3年(1209年)1月13日、尾張介を兼ねる。
  • 承元4年(1210年)9月30日、父泰通の喪に服す。同年11月25日、蔵人頭を止められる。
  • 承元5年(1211年)閏1月、復任。
  • 建暦2年(1212年)5月11日、蔵人頭に還補される。
  • 建保2年(1214年)5月10日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。
  • 建保3年(1215年)1月5日、従三位に叙される。同月13日、備前権守を兼ねる。
  • 承久2年(1220年)1月6日、正三位に昇叙。同月22日、伊予権守を兼ねる。同年4月6日、右衛門督を兼ね検非違使別当に補される。
  • 貞応元年(1222年)8月16日、権中納言に任ぜられる。右衛門督と検非違使別当は元の如し。同年12月17日、右衛門督と検非違使別当を辞した。
  • 貞応3年(1224年)1月23日、従二位に昇叙。5月20日、勅授を許される。
  • 嘉禄3年(1227年)1月5日、正二位に昇叙。同年4月9日、中納言に転正。
  • 嘉禎元年(1235年)10月8日、権大納言に昇進。11月には大嘗会検校を務める。同年12月9日、権大納言を辞した。
  • 嘉禎2年(1236年)4月8日、出家。
  • 延応元年(1239年)10月13日、薨去。享年64。

系譜

  • 父:藤原泰通(1147-1210)
  • 母:四条隆季の娘
  • 妻:不詳
    • 男子:藤原氏通
    • 男子:成恵
    • 女子:藤原高実室

「中殿御会」に参加を許される

建保6年(1218年)8月に行われた「中殿御会」に経通は参加を許されていて、歌人としての評価を受けていたと考えられる。この時の経通の詠歌は次の歌である。

  • 幾千代を秋に任せて池水も雲井の月の影宿すらん

脚注

参考文献

  • 『検非違使補任 別巻』宮崎康充 編、続群書類従完成会、2006年。ISBN 4-7971-0724-3。
  • 『公卿補任』黒板勝美・国史大系編修会 編、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉。 ※建保2年(1214年)に経通が参議となった時以降の記事。
  • 『尊卑分脈』黒板勝美・国史大系編修会 編、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉。 ※「藤原経通」および「藤原泰通」の項。
  • 『続日本の絵巻 12 : 随身庭騎絵巻・中殿御会図・公家列影図・天子摂関御影』中央公論社、1991年。

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