ドナルド・ジェームズ・ラーセン(Donald James Larsen、1929年8月7日 - 2020年1月1日)は、 アメリカ合衆国インディアナ州ミシガンシティ出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。
ニューヨーク・ヤンキース時代、1956年のワールドシリーズ第5戦(対ブルックリン・ドジャース)でワールドシリーズ史上初のパーフェクト・ゲームを達成した(2022年現在ポストシーズン唯一の完全試合であり、ワールドシリーズのノーヒッターとしても唯一)。
経歴
1953年にセントルイス・ブラウンズでメジャーデビュー。「夜遊び」が好きで、このためかなかなか好成績はあげられなかった。翌1954年にチームはボルチモアに移転しオリオールズとなったが、この年3勝21敗の成績でア・リーグ最多敗戦を記録。この年のオフ、史上最多の17名が関与したトレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍(オリオールズ7人対ヤンキース10人)。ただしこれで行状があらたまったわけではなく、移籍初年度の1955年にはスプリング・トレーニング中に早朝5時に車を電信柱にぶつけている。監督のケーシー・ステンゲルは「電報でも出しに行ったんだろう。(時間が)早すぎるというか、遅すぎるというか。」と語っていたという。
1956年には自己最多の11勝(7敗)をあげてチームのリーグ優勝に貢献。その年のワールドシリーズはヤンキースとブルックリン・ドジャース(当時はニューヨーク)の「地下鉄シリーズ」となった。ドジャースの本拠地エベッツ・フィールドで開幕し、ドジャースがまず連勝。ヤンキー・スタジアムに移った第3・4戦はヤンキースが連勝し、迎えた第5戦。先発したラーセンはドジャース打線相手にワールドシリーズ史上初の完全試合を達成した。2023年終了時点で唯一の記録である。シリーズは最終戦までもつれたがヤンキースが勝ち、ラーセンはシリーズMVP及びベーブ・ルース賞に選ばれた。
翌1957年も10勝をあげるが、二桁勝利はその2シーズンのみ。ヤンキースには1959年まで在籍し、その後は1960年にカンザスシティ・アスレチックス(そのときの交換相手の一人にロジャー・マリスがいる)、1961年途中にシカゴ・ホワイトソックス、1962年にサンフランシスコ・ジャイアンツ、1964年途中にヒューストン・コルト45's(1965年よりアストロズに名称変更)、1967年にシカゴ・カブスに移籍し、1967年限りで現役引退。
1999年7月18日には、ヤンキー・スタジアムで始球式を行っているが、この試合ではデビッド・コーン(ニューヨーク・ヤンキース)がモントリオール・エクスポズを相手に完全試合を達成している。
晩年は2018年6月17日にヤンキー・スタジアムで開催されたオールドタイマーズ・デーに登場し、その際には日本のマスコミに大谷翔平(ロサンゼルス・エンゼルス)を激励するコメントを残している。
2020年1月1日、食道がんのため、アイダホ州ヘイデンの緩和ケア施設で死去した。90歳没。
備考
早稲田実業高等学校時代の王貞治は投手としてプレーしていたが、コントロールに難のあるところがあった。そこで早実の総監督的立場だった久保田高行のアドバイスなどでノーワインドアップ投法にフォームを矯正することになり、王はフォーム固めの参考とするために荒川博(当時=毎日オリオンズ)の家で、ノーワインドアップで投げていたドン・ラーセンの投球フォームの映像を見ていたことを語っている。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- SLA(セントルイス・ブラウンズ)は、1954年にBAL(ボルチモア・オリオールズ)に球団名を変更
表彰
- ワールドシリーズ最優秀選手1回(1956年)
- ベーブ・ルース賞1回(1956年)
記録
- 完全試合(1956年10月8日)
完全試合内容
- 1956年10月8日 ワールドシリーズ第5戦
- ニューヨーク・ヤンキース2-0ブルックリン・ドジャース
- ヤンキースタジアム、観衆64,519人
※ゴ:ゴロの略
- 総投球数:97球
脚注
関連項目
- メジャーリーグベースボールの選手一覧 L
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)