楯甲 新蔵(たてかぶと しんぞう、1908年3月11日 - 1966年1月2日)は、大阪府大阪市城東区出身で、中村部屋(入門時は不知火部屋、一時友綱部屋)に所属した元大相撲力士。本名は福井 新蔵(ふくい しんぞう)。身長168cm、体重109kg。最高位は前頭筆頭。
来歴
1908年3月11日に大阪府大阪市城東区で生まれる。1922年に地元・大坂相撲の不知火部屋に入門、のち中村部屋へ移籍したがなかなか出世できず、1926年1月に東京相撲へ加入、友綱部屋から三段目格で東京相撲所属力士となった。大坂相撲での出世の遅さは東京に来てからも続き、その原因の一つとして168cmの小兵だったことが挙げられる。新十両昇進は初土俵から9年が経過した1931年11月場所で、1932年1月の春秋園事件では一時脱退するも、1933年1月場所にて十両格別席で復帰した。1934年5月場所で新入幕を果たすと、大坂相撲の中村部屋所属だったこともあり、当時の系統別総当たり制の時代では全ての部屋と対戦したが、1938年からは二所ノ関一門に所属することとなり、これ以降は二所ノ関一門内で「若い者の面倒をよく見る人格者」と評された。
1940年から翌年にかけて幕内上位で活躍し、横綱・男女ノ川登三からは3場所連続で金星を獲得したほか、1940年5月場所を14勝1敗で幕内最高優勝を果たした関脇・安藝ノ海節男の1敗は楯甲との対戦によるものだった。立合いから真っ直ぐに突き進む突き押し一筋の相撲で、土俵際に出ると見せかけておいての引き技もよく決まった。安藝ノ海は先述の敗戦もあってか楯甲に対する苦手意識を抱いていたという。
1943年1月場所を最後に現役を引退後は年寄・5代中村を襲名し、中村部屋を継承した。弟子からは幕内・楯甲幸男を育成したが、1961年11月に部屋を閉鎖して二所ノ関部屋へ合流した。その中の弟子に、後に幕内へ昇進する大文字研二が含まれていた。1966年1月2日死去。57歳没。大坂相撲の力士出身者として最後の相撲協会員であった。
主な成績
- 通算成績:202勝186敗1分21休 勝率.521
- 幕内成績:92勝119敗1分15休 勝率.436
- 現役在位:43場所
- 幕内在位:17場所
- 金星:3個(男女ノ川3個)
- 各段優勝
- 三段目優勝:1回(1928年5月場所)
場所別成績
- 1926年1月に東京加入
幕内対戦成績
※九州山と引分が1つある。
四股名変遷
- 枩若 新三(まつわか しんぞう)1926年1月場所 - 1930年10月場所
- 楯甲 新蔵(たてかぶと しんぞう)1931年1月場所 - 1942年5月場所
- 楯甲 健雄(- たけお)1943年1月場所
脚注
関連項目
- 大相撲力士一覧