野田 景範(のだ かげのり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。足利氏(古河公方)、徳川氏の家臣。下総国・栗橋城主。

生涯

天文18年(1549年)生まれの簗田持助より多少年長程度の同世代。天文23年(1554年)、前古河公方の足利晴氏・藤氏父子が古河城奪還を図った際には、兄・野田弘朝と共に5代公方・足利義氏とその後ろ盾となった後北条氏の側に立ち、晴氏らに対抗した。永禄3年(1560年)、上杉謙信(長尾景虎)が関東に入り関宿城の足利義氏を包囲すると、兄・弘朝と共に籠城したが、翌永禄4年(1561年)に義氏が城を出る頃には、義氏に随行した弘朝とは行動を別にしていたと考えられる。

永禄8年(1565年)頃、関東野田氏の家督を継ぎ、上杉謙信(長尾景虎)の偏諱を受け景範を名乗ったと考えられる(ただし、景虎は永禄4年(1561年)閏3月に政虎と改名している。)。翌永禄9年(1566年)、景範は上杉方として行動していた。上杉謙信が下総小金城・臼井城攻撃のため動員すべきとした関東衆の中に「野田 五十騎」が含まれている 。しかし、臼井城攻撃の失敗後、他の関東衆と同様に景範も離反する。

永禄10年(1567年)5月には、北条氏照から起請文を与えられており、後北条氏に従属したことが確認できる。本起請文の中で栗橋城明け渡しを要求され、景範は栗橋城主としての地位を失う。永禄11年(1568年)10月には既に古河城に移っており、氏照より古河・鴻巣への在宿を指示されているので、この頃には栗橋城を明け渡していた。

景範は後北条氏従属後、同じ古河公方家臣との所領争いにも苦しんだ。永禄10年12月には幸手一色氏と「河辺十六郷半」を巡り争っている。続いて豊島氏景とも、下野・寒川郡網代氏一跡について争論となる。しかし永禄11年(1568年)7月、公方・足利義氏により、一色氏・豊島氏どちらの争論についても景範の訴えは却下されている。

これらの所領争いにより公方・義氏の不興を被ったこと、さらに栗橋城を失った影響により、累代の公方家重臣であった野田氏は失墜し、以後、公方側近の中に名前が見られなくなる。同じ公方家重臣だった簗田氏や一色氏が、義氏死後も「御連判衆」として側近であり続けたことと対照的である。

永禄12年(1569年)、北条氏政と上杉謙信との間に越相同盟が成立し、古河城・栗橋城の帰属を巡る交渉が行われた際には、北条氏照から景範に対して、「栗橋城は景範の本地であることを理由に後北条氏が確保すること、栗橋城を景範に返還する意向であること」が示された。実際に同年7月、景範は栗橋在城を命じられる。

元亀3年(1572年)12月までに景範は再度離反する。所領争いや後北条氏家臣との闘乱事件により、後北条氏の許では不満が募っていたと考えられる。元亀3年12月、栗橋城は後北条氏の攻撃を受け落城した。その後は、再び公方・義氏の許に帰参し、子・三郎に家督を譲ったと考えられている。以後、栗橋城は北条氏照の北関東攻略の拠点となる。

その後、三郎が没すると、景範は自ら家督を引き継いだ。文禄元年(1592年)、野田家伝来の宝刀「菖蒲丸」を献上することで、本多正信を通じて徳川家康より召抱えられ、下総・大塚戸(茨城県常総市)に50石を与えられる。景範は幕臣としての近世野田氏の祖となった。

脚注

参考文献

  • 新井浩文 『関東の戦国期領主と流通』 岩田書院、2011年
  • 黒田基樹 『古河公方と北条氏』 岩田書院、2012年
  • 古河歴史博物館編集・発行 『野田家文書』 2003年
  • 佐藤博信 『中世東国の権力と構造』 校倉書店、2013年
  • 戦国人名辞典編集委員会 編 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、2006年

副店長:野田

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