ライモンド・モンテクッコリ (イタリア語: Raimondo Montecuccoli) は、イタリア海軍の軽巡洋艦。ライモンド・モンテクッコリ級の1番艦(ネームシップ)。艦名は17世紀にオーストリアで転戦したイタリア人の将軍ライモンド・モンテクッコリにちなむ。前級と異なり二重円筒構造の塔型艦橋をもち、航空兵装を艦中央部に移している。日中戦争では上海に派遣され、その際に大日本帝国を訪問した。第二次世界大戦終結後の講和条約でも、保有を許され、練習艦としても運用された。1964年まで在籍していた。
艦歴
イタリア参戦まで
イタリア王国の王立海軍が建造したライモンド・モンテクッコリ級軽巡洋艦の1番艦で、コンドッチェリ型(傭兵隊長型)の第3グループである。姉妹艦はムツィオ・アッテンドーロ (Muzio Attendolo) 。ライモンド・モンテクッコリは1930年計画で建造が承認され、1931年(昭和6年)10月1日にアンサルドジェノバ造船所で起工した。1934年(昭和9年)8月2日に進水する。1935年(昭和10年)6月30日に就役した。
イタリア王国は中華民国の数か所に租界をもうけており、天津市のイタリア租界や上海共同租界 (Concessione internazionale di Shanghai) などを防衛するためにサンマルコ海兵隊が配備され、またイタリア海軍の艦艇も配置していた(中国におけるイタリア租界、租借地)。 1937年(昭和12年)8月13日、第二次上海事変が発生した。中華民国空軍の上海爆撃では、上海共同租界でも民間人に多数の死者が出る。北支事変は全面戦争に発展した。イタリア政府は権益保護のため派兵を決定し、更に中国大陸へ巡洋艦を派遣する。「ライモンド・モンテクッコリ」は陸戦隊をのせ、同年8月27日にナポリを発し、9月10日にシンガポール寄港、9月15日になり上海に到着した。亀井文夫が監督した記録映画『上海 -支那事変後方記録-』には、上海に停泊する「ライモンド・モンテクッコリ」やアメリカ重巡「オーガスタ」(合衆国アジア艦隊)の艦影が収められている。上海をめぐる戦闘では、碇泊中の本艦が至近弾を浴びることもあった。
1938年(昭和13年)3月、イタリアは日伊友好のため軍艦を派遣することにした。 3月31日、日本海軍の長谷川清支那方面艦隊司令長官は、ザラ艦長などを黄浦江に停泊する旗艦「出雲」に招いて歓待した。 4月、「ライモンド・モンテクッコリ」(イタリア極東艦隊旗艦)は日本への親善航海をおこなう。 4月2日、長崎港に到着した。 その後、別府港、神戸港に寄港。 18日、ラインモンド・モンテクッコリ(艦長アルベルト・ダ・ザラ大佐)は、儀礼艦の敷設艦「厳島」に出迎えられ、横浜港に入港した。 19日、モンテクッコリ艦長や副長は皇居を訪問し、昭和天皇に拝謁した。22日、海軍省の大臣室でザラ艦長に勲三等瑞宝章が授与される。乗組員は東京見物や民間人との交流をおこない、日伊親善につとめた。 4月29日、本艦は横浜を出発した
5月初旬、青森を出発して中国大陸にむかった。 8月9日、仁川港に入港する。ザーラ艦長は朝鮮総督府を訪問し、南次郎総督や中村孝太郎陸軍大将(朝鮮軍司令官)と交流した。8月17日から18日まで、大連に寄港した。 9月29日、修理のため横浜港に入港する。10月下旬まで横浜に滞在した。またニューサウスウェールズ入植150周年に際してオーストラリアを訪問したこともある(本記事写真)。
「ライモンド・モンテクッコリ」は同年11月1日に上海を離れ、12月7日にナポリに戻った。
第二次世界大戦
1940年(昭和15年)6月10日、イタリア王国はイギリスとフランスに宣戦を布告し、枢軸国側にたって第二次世界大戦に参戦した。開戦と共にフランス海軍はヴァード作戦 (Opération Vado) を発動し、巡洋艦部隊によるイタリア本土の要港に対する艦砲射撃を実施する。トゥーロンを出撃したフランス艦隊は、15日にジェノヴァとサヴォーナを砲撃した。
その頃、イギリス地中海艦隊の根拠地アレクサンドリアを間借りしていたフランス艦隊のうち、重巡トゥールヴィル (Tourville) と重巡デュケーヌ (Duquesne) が同地を出撃してエーゲ海の強行偵察をおこなった。イタリア海軍はナポリから軽巡2隻(ライモンド・モンテクッコリ、バルトロメオ・コレオーニ)を出撃させ、仏重巡2隻の退路を断とうとしたという。だが両者とも遭遇せず、海戦にならなかった。
6月22日に独仏休戦協定が、24日にフランスとイタリア間でヴィラ・インチーサ休戦協定が結ばれて、フランスは事実上降伏した。
その後、地中海における枢軸国側の主敵はイギリスとなる。地中海攻防戦において、ライモンド・モンテクッコリはプンタ・スティロ海戦、第1次シルテ湾海戦、ハープーン作戦迎撃(6月中旬の海戦)などに参加した。
1942年(昭和17年)になると、マルタを巡る連合国軍と枢軸国軍の戦闘は激化した。同年6月、イギリス海軍はアレクサンドリアからマルタ島を目指すヴィガラス作戦と、ジブラルタルからマルタ島を目指すハープーン作戦(Operation Harpoon)を実施、二つの増援補給船団を編成した。ヴィガラス船団(地中海艦隊)邀撃にはクレタ島のドイツ空軍やヴィットリオ・ヴェネト級戦艦2隻を基幹とするイタリア海軍主力艦隊が投入され、本艦は僚艦と共にハープーン船団(H部隊)の攻撃にむかった。
イギリス軍のハープーン船団護衛部隊のうち、H部隊 (Force H) の戦艦や航空母艦はチュニジア北東部ボン岬半島で引き返したので、残りの船団は海と空からの枢軸国軍の攻撃に晒された。6月14日、パンテッレリーア島付近において伊軽巡2隻(エウジェニオ・ディ・サヴォイア、ライモンド・モンテクッコリ)と駆逐艦5隻は、既に枢軸軍空軍機に痛めつけられていた英軍輸送船団を攻撃した。これをパンテリア沖海戦と呼称する。連合国軍と枢軸国軍双方の航空攻撃が入り乱れるなかでの海戦となり、イタリア側は協同で英駆逐艦ベドウィン (HMS Bedouin) と油槽艦ケンタッキー (SS Kentucky) を撃沈、英駆逐艦パートリッジ (HMS Partridge,G30) を撃破した。また本艦の砲撃が英掃海艇ヘーベ (HMS Hebe,J24) に命中したという。イタリア側は伊駆逐艦ビバルディ (Ugolino Vivaldi) が損傷した。ハープーン船団のイギリス軍輸送船6隻のうち、マルタに辿り着いたのは2隻であった。
ヴィガラス作戦とハープーン作戦の双方に失敗したイギリス海軍は、ふたたび大輸送船団を編成した。ハープーン作戦と同様に、ジブラルタル経由でマルタを目指すペデスタル作戦である。イタリア海軍の水上艦隊は、重巡3隻(ゴリツィア、ボルツァーノ、トリエステ)、軽巡3隻(エウジェニオ・ディ・サヴォイア、ライモンド・モンテクッコリ、ムツィオ・アッテンドーロ)、駆逐艦多数という戦力で出撃した。だが8月13日に英潜水艦アンブロークンに雷撃される。重巡ボルツァーノ (Bolzano) が大破、軽巡ムツィオ・アッテンドーロ (Muzio Attendolo) が艦首を失った。連合国軍輸送船団は損害を受けながらもマルタに辿り着き、連合国軍は同島周辺の制空権を盤石なものとした。
同年12月4日、米軍機のナポリ空襲によってライモンド・モンテクッコリは大破し、死者は44人にのぼった。ライモンド・モンテクッコリは修理のためパレルモに回航された。その後、対空火器の強化がおこなわれた。
第二次世界大戦後
1943年(昭和18年)9月、イタリア王国は降伏した。イタリア海軍の大型艦の大部分は、連合国に引き渡される。イタリア軍の武装解除の後、イタリア艦籍に復帰する。第二世界大戦終結後、王政が廃止されてイタリア共和国が樹立した。パリ条約(講和条約)によりイタリア艦艇の何隻かは賠償艦として連合国陣営に引き渡されたが、本艦はイタリアに残された。その後、訓練艦として1964年まで在籍した。その後1972年に解体されたが、その一部が主砲等と共にペルージャ郊外のチッタ・デッラ・ドメニカに保存された。
出典
注
参考文献
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- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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- 外務省条約局 訳編『イタリア平和條約』外務省条約局、1947年6月。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272610。
関連項目
- キーロフ級巡洋艦 - 本級の設計図を基に建造されたソ連海軍の巡洋艦。
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、ライモンド・モンテクッコリに関するカテゴリがあります。
- Steelnavy
- VITA OPERATIVA DEGLI INCROCIATORI LEGGERI Classe “CONDOTTIERI” Gruppo “RAIMONDO MOTECUCCOLI” - Pietro Cristini Restauratore di modelli navali (イタリア語)