内藤 信輝(ないとう のぶてる)は、江戸時代中期の大名。越後国村上藩の第2代藩主。官位は従五位下・紀伊守。

経歴

天和2年(1682年)、隠居していた元棚倉藩主・内藤信良の三男として棚倉にて誕生した。元禄7年(1694年)閏5月21日に14歳で、当時棚倉藩主であった(のち駿河国田中を経て村上へ転封した)内藤弌信の養子となり、同28日に徳川綱吉に御目見する。翌元禄8年12月18日に従五位下・豊前守となり、後の宝永6年(1709年)9月7日に伊予守に改めた。

享保10年(1725年)2月18日に襲封し、19日に紀伊守となる。3月12日に村上に入部したが、同年10月にこの地で卒去した。享年44。

葬地は新潟県村上市の光徳寺であったと伝えられる(以上「寛政譜」新訂13巻202)。現在の墓所も同じ。

系譜

子女は「寛政譜」は次の2男5女を記す。「越後村上 内藤家譜」からの記述を付加し、また早世した男子2人を記す『村上郷土史』所載系図の記述を括弧書きにした(79および80頁)。

父母

  • 内藤信良(実父)
  • 内藤弌信(養父)

正室

  • 菊 ー 蜂須賀隆重の三女

側室

  • 武笠氏

子女

  • 男子
  • ヒサ、生母は菊(正室)
  • トミ、生母は菊(正室)
  • 内藤信積(長男)生母は菊(正室)
  • モト、生母は菊(正室)
  • 円覚院、生母は菊(正室)
  • 内藤信興(次男)生母は武笠氏(側室)
  • 加藤明経正室離別し水野勝前の正室として再嫁

養女

  • 相馬徳胤正室 ー 内藤弌信の娘

特記事項

  • 生没年および享年は「寛政譜」および「藩翰譜続編」(『新編 藩翰譜』2巻104頁および128頁の系図が続編部分である)の記述に拠った。「藩翰譜続編」は享保10年の冬(また系図部分に忌日10月25日と記す)に45歳で卒と記す。従って天和元年生まれとなる。「寛政譜」は生年、没年月日を明記している。
  • 国立公文書館蔵「内藤家譜」は出生日を天和2壬戌年10月27日と記している。しかし同文書中には天和2年(1682年)を「辛酉年」とする記述もあり(「信良譜」)暦に関する混乱がみられる(辛酉は天和元・1681年)。『村上郷土史』102頁の記述もこれに同じ。
  • 生母に関して『村上郷土史』79頁は「側室カツ、小早川氏」と記す。「寛政譜」は「某氏」、「内藤家譜」は「家女 号 栄寿院」としてその出自を明らかにしていない。

脚注

出典

  • 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年
  • 『新編 藩翰譜』2巻 新人物往来社、1977年
  • 国立公文書館所蔵「内藤家譜」(請求番号:157-0205)
  • 東京大学史料編纂所所蔵「越後村上 内藤家譜」(請求番号:4175-665)※東京大学史料編纂所データベースから検索・閲覧可能。
  • 『村上郷土史』村上本町教育会、1931年

内藤裕敬による〈俳優のための〉演劇ワークショップ平成29年4月15日(土)・16日(日) AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)

内藤家

ミスターソフィア候補者No.5 内藤健貴さん 赤坂経済新聞

内藤への直接謝罪:時事ドットコム

内藤 誠インタビュー 運用メンバーインタビュー ひふみ