高木 時夫(たかぎ ときお、 1937年4月21日 - 2006年1月23日)は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
経歴
浦和高校時代はサッカーをやっていた事もあった。捕手として1954年秋季関東大会県予選決勝に進むが、浦和商に惜敗。高校卒業後は日本大学へ進学し、東都大学リーグでは在学中3度の優勝を経験。宮田征典とバッテリーを組み、1959年秋季リーグの優勝に貢献。リーグ通算31試合出場、73打数20安打、打率.274、0本塁打、6打点、ベストナイン1回受賞。大学同期に会田豊彦・黒木基康(大洋)・笹木士朗(日本鋼管)らがいた。大学卒業後は富士製鐵釜石に入社し、1961年に常磐炭砿の補強選手として都市対抗に出場。
同年のシーズン途中に中日ドラゴンズへ入団、1年目から一軍で起用される。
1964年には小川敏明と正捕手の座を争い、同年は43試合に先発マスクを被った。
1965年には木俣達彦がレギュラー捕手となり、その後は新宅洋志と共に控え捕手として起用される。
1968年には1年だけ二軍コーチを兼任。
1969年からは選手専任に戻る。1969年5月5日の広島戦(福井)では星野仙一とバッテリーを組み、初勝利をアシスト。
1972年からは一軍コーチを兼任。
1974年に現役を引退。
引退後は中日の一軍バッテリーコーチ(1975年 - 1977年, 1979年 - 1980年)・二軍バッテリーコーチ(1978年)・スカウト(1981年 - 1991年)を務め、スカウト時代には当時無名であった山本昌を獲得。
1992年からは母校・日大の先輩である田宮謙次郎OB会長の招聘で阪神タイガースに移籍し、編成部スカウト(中部地区担当)を務めた。阪神では舩木聖士・安藤優也・上坂太一郎を獲得し、定年後も2001年まで務めた。
2002年からは嘱託で球団広報(課長待遇)を務めた。
2003年限りで退団。
2006年1月23日、原発性肺癌のため名古屋市内の病院で死去。享年68歳。
死後、山本はナゴヤドームでの登板前は高木の墓参りを欠かさなかったという。
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 6 (1961年 - 1962年)
- 31 (1963年 - 1971年)
- 68 (1972年 - 1977年)
- 75 (1978年 - 1980年)
脚注
関連項目
- 埼玉県出身の人物一覧
- 日本大学の人物一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
外部リンク
- 個人年度別成績 高木時夫 - NPB.jp 日本野球機構