畠山 基徳(はたけやま もとのり、生没年不詳)は、江戸時代の高家旗本。畠山基利の養子。実父は畠山義方。正室は本多助賢の娘。通称は左衛門。上総介・民部大輔。
生涯
天保11年(1840年)5月7日、父・基利の死去により家督を相続する。天保13年(1842年)12月8日、高家職に就き、従五位下侍従・上野介に叙任する。後に民部大輔に改める。嘉永3年(1850年)7月16日、病のため辞職する。以後、雁間末席に列する。つまり、高家末席という優遇措置を得ることになった。
文久2年(1862年)3月29日、隠居し、息子・基永に家督を譲る。戊辰戦争中の慶応4年(1868年)3月10日、自領の陣屋(栃木市嘉右衛門町)に入った。
足利への復姓
明治元年(1868年)7月、畠山氏は本姓である「足利」を名乗ることを願い出て、以降は足利氏を名乗る。子・基永は「足利木久麿」と改称した。
系譜
- 父:畠山義方
- 母:不詳
- 養父:畠山基利
- 正室:本多助賢の娘
- 子女:畠山基永
脚注
参考文献
- 東京大学史料編纂所 編『大日本近世史料』《柳営補任 一》東京大学出版会、1963年3月25日。NDLJP:12279917。