松岡 千代(まつおか ちよ、1891年 - 1906年1月26日)は、数え年16歳で服毒自殺した女学校の生徒。同級生宛に残した遺書の内容が新聞紙上に掲載されるなど社会的な注目を集め、1903年に遺書「巌頭之感」を残して投身自殺した藤村操になぞらえて、「女の藤村操」などと称された。
自殺
松岡は自殺した時点で数え年16歳、山陽女学校(後の山陽学園中学校・高等学校の前身)2年生であった。
彼女は幼くして父母と死別しており、女学校の友人たちには、12歳の頃から現世に閉塞感を覚えていたと語り、「早く死んで廣い樂な世界へ行きたい」と話していたという。
1906年1月26日、松岡は女学校の寄宿舎で亜砒酸による服毒自殺を遂げた。
親しい同級生であった松原靜枝に宛てられた遺書が残されており、その内容の抜粋は新聞に掲載され、大きな社会的反響を呼んだ。彼女の死は、人生に煩悶してのことと受け止められた。『読売新聞』は、遺書とは別に残された文章「惱める少女」の抜粋を掲載した際に「其年齢と學級とに比較して大に文才の見るべきものあり實に惜しむべきの極みにこそ」と松岡の文才を評した。
松岡の自殺は、3年前の藤村操が大きく影響したものであり、模倣者が40人ほどいた「哲学自殺」の一例とされるが、当人は遺書で「我をして徒らに藤村操を學ぶものとなす勿れ」と述べており、自らの死を藤村らと同一視されることは望んでいなかった。
遺書
『読売新聞』紙上に紹介された遺書の抜粋は以下の通り。
影響
松岡の自殺を受け、山陽女学校長であった豊田恒男は松岡を除籍処分とし、生徒たちに哲学書などの読書を禁止した。
さらに、文部大臣であった牧野伸顕も、青年たちが「哲学めきたる事に心を傾け」ることを牽制する訓示演説をおこなった。
脚注
外部リンク
- 〈藤村操世代〉の憂鬱(連載第5回) 〈後追い〉と追憶のはざまで―村岡美麻と松岡千代 - 川喜田晶子