高 済(こう さい、? - 569年)は、中国の北斉の皇族。博陵文簡王。高歓の十二男。母は婁昭君。

経歴

天保元年(550年)5月に北斉が建てられると、6月に高済は博陵王に封ぜられた。高済が文宣帝の巡幸に従ったことがあったが、道中で母の婁太后のことが恋しくなり、逃げ帰ったことがあった。文宣帝が怒って白刃をつきつけると、高済は驚きのあまり魂の抜けたようになった。太寧元年(561年)11月、太尉の位にのぼった。河清元年(562年)、定州刺史として出向した。天統5年(569年)1月、定州の人に反乱の計画を諮問した。後主がこのことを聞くと、ひそかに人を派遣して高済を殺させた。仮黄鉞・太尉・録尚書事の位を追贈された。

子の高智が後を嗣いだ。

脚注

伝記資料

  • 『北斉書』巻10 列伝第2
  • 『北史』巻51 列伝第39

参考文献

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。 

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