山田 文七(やまだ ぶんしち)は、愛知県稲沢市の名跡。

歴史

山田文七家は美濃路の稲葉宿にある。稲葉宿で名跡となっている家には、山田市三郎家、山田文七家、山田藤吉家があり、明治時代から昭和時代まで当主は代々名跡を襲名した。山田文七家のはす向かいには山田市三郎家があり、江戸時代の山田市三郎家は尾張藩の為替御用達(大名貸)を勤めていた。

6代目山田文七

明治期の山田文七は、株式会社稲沢銀行(→東海銀行→三菱UFJ銀行)、稲沢電気株式会社(後の稲沢電灯株式会社→東邦電力→中部電力)、稲沢織布の創業者に名を連ねた。山田文七家は1881年(明治14年)に建てられたとされ、屋根瓦には「山文」の屋号が刻まれている。

7代目山田文七

1897年(明治30年)11月20日、岐阜県稲葉郡北長森村水海道1554(現・岐阜市水海道)に、後の7代目山田文七が生まれた。岐阜市立岐阜商業学校を卒業後、22歳の時に6代目山田文七の婿養子となり、山田文七邸に開設された村瀬銀行の幹部を務めると、1940年(昭和15年)8月には稲沢町会議員に就任した。

1947年(昭和22年)4月5日の第1回統一地方選挙において、7代目山田文七は稲沢町長に就任した。1947年(昭和22年)12月には稲沢町に診療所を開設し、1948年(昭和23年)8月25日には稲沢町国民健康組合稲沢病院(現・稲沢市民病院)を開設した。1949年(昭和24年)2月22日、病気のために稲沢町長を退任した。1959年(昭和34年)9月14日に61歳で死去した。墓所は宝光寺。

脚注

参考文献

  • 新修稲沢市史編纂会事務局『新修 稲沢市史 本文編 上』稲沢市、1990年。全国書誌番号:91034784。 
  • 新修稲沢市史編纂会事務局『新修 稲沢市史 本文編 下』稲沢市、1991年。全国書誌番号:91037610。 
  • 新修稲沢市史編纂会事務局『新修 稲沢市史 研究編1 建造物』稲沢市、1978年。全国書誌番号:79006024。 
  • 新修稲沢市史編纂会事務局『新修 稲沢市史 資料編15 近現代2』稲沢市、1986年。全国書誌番号:86027993。 

外部リンク

  • ウィキメディア・コモンズには、山田文七家に関するカテゴリがあります。

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