グジェゴシュ・フィテルベルク(ポーランド語: Grzegorz Fitelberg, ヘブライ語: גז'גוז' פיטלברג, ロシア語: Григорий(Гжегож) Фительберг, 1879年10月18日 - 1953年6月10日)は、現在のラトビア出身のユダヤ系ポーランド人のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。カロル・シマノフスキ、ミェチスワフ・カルウォヴィチ、ルドミル・ルジツキ、アポリナリ・シェルトらと共に若きポーランド(ムウォダ・ポルスカ)の一員。

経歴

1879年、ダウガフピルス生まれ。父のゴーシィは軍楽員であった。1891~1896年、 ワルシャワでヴァイオリンをスタニスラフ・バルツェヴィチ、作曲をジグムント・ノスコフスキの下で学ぶ。1896年にワルシャワ大劇場オーケストラのヴァイオリン奏者となり、1901年からワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団の第2ヴァイオリンのコンサートマスター。1904~1905年シーズンには、同オーケストラの監督を務めた。

作曲家としては、1898年にライプツィヒで行われたイグナツィオ・パデレフスキー記念コンクールで第1位を獲得。1905年にカロル・シマノフスキと作曲家仲間たちと若きポーランド(ムウォダ・ポルスカ)を結成。

指揮者としては、第1次世界大戦中にはバレエ・リュスと音楽劇に関与した。1922年パリにおけるイーゴリ・ストラヴィンスキーのマヴラ初演の指揮を務めている。また、1923年ワルシャワにおけるニコライ・マヤコフスキーの交響曲第3番の初演指揮も彼である。1935年にはポーランド国立放送カトヴィツェ交響楽団を設立した。 ヴァイオリニスト・パヴェウ・コハィンスキ(パウル・コハンスキ)、ミェチスワフ・カルウォヴィチ、ルドミル・ルジツキ、アポリナリ・シェルトらと共にシマノフスキの演奏者・協力者の一人であり、それによってシマノフスキの作品が全ヨーロッパに知られるようになった。

1940年には南米へ行き、1940~1941年にはテアトロ・コロンのオーケストラ指揮をする。1942~1945年にはアメリカ合衆国へ住み、1946年にポーランドへ帰国した。 1947年から ポーランド国立放送カトヴィツェ交響楽団に復帰し、死去するまで同楽団を率いた。

家族

  • 最初の妻との息子:イェジー・フィテルベルク (1903~1951)-作曲家
  • 二番目の妻:ガリーナ・シモリコヴナ(1892~1939)-舞踊家
  • 甥:アレクサンダー・ザーキン-ピアニスト

また、妹のレヤ・ヴァホリデルは1941年にワルシャワ・ゲットーで亡くなっている。

脚注



フィテルベルク/カセルン/スピサク:協奏曲&コンチェルティーノ集(シェンキェヴィチ/ゴルシカ/スウォヴィンスキ) EDA039 NML

ルジツキ ルドミル・ルジツキ (Ludomir Różycki) mitosyaのブログ

ポーランド国立放送交響楽団/Moniuszko Bajka; Noskowski Step; Karlowicz Biala

交響曲 ウカシュ・ボロヴィツ&ポズナン・フィル フィテルベルク、グジェゴシュ(18791953) HMV&BOOKS online

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