クルブ・ネカクサ(スペイン語: Club Necaxa)は、メキシコ・アグアスカリエンテスに本拠地を置くサッカークラブ。1923年8月21日創設。2022-23シーズンはリーガMXに在籍している。
23,000人収容のエスタディオ・ビクトリアをホームスタジアムとしている。国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)による「20世紀大陸別最優秀サッカークラブ」では北中米カリブ海地区で第7位にランクインした。なお、クラブの正式名称はインプルソーラ・デル・デポルティーボ・ネカクサ(Impulsora del Deportivo Necaxa)である。
歴史
1920年代
1923年8月21日、メキシコシティーにて設立された。スコットランド出身で「Luz y Fuerza」のエンジニア兼オーナーのウィリアム H. フレーサー氏により、「Luz y Fuerza」と「Trams」を結集してできたチームである。当時メキシコのサッカー連盟は、企業名にちなんだチーム名を許可しなかった為、発電所近くのネカクサ川にちなんで、「ネカクサ」というチーム名を付けた。また、チームの色として赤と白の色を採用し、「ロヒブランコ」というニックネームをつけた。1923年のリーグレビューでは5位の成績を収めた。
1930年代(オンセ・エルマノス)
1930年9月14日、ネカクサは、フレーサーファミリーから寄付された土地に15,000人収容の可能な「パルケ・ネカクサ」というスタジアムを開設した。1932-33年のシーズンで史上初めてのリーグチャンピオンとなり、1934-35年、1936-37年、1937-38年のシーズンにて優勝した。特に1934-35年シーズンは、チャンピオンズリーグ、コパ、ディストリクトフェデラル、ナショナレス、フエゴセントロアメリカノスの5つのタイトルを獲得した。最後のタイトルは、エルサルバドルでの中央アメリカ選手権であり、ネカクサをそのままメキシコ代表チームとして派遣し、優勝している。1930年前半、フィールドでの連帯感と高レベルの相互理解により「オンセ・エルマノス(11人の兄弟)」と呼ばれ、ジャーナリストのパコ・マルティネス・デ・ラ・ベガはネカクサに「カンペオニシモ」という称号を与えた。中でも有名なスター選手として、ホラシオ・カサリンがおり、チームの黄金時代を築いた。
1940年代
1942年、チームから数人の選手が出ていき、フレーサーファミリーは、メキシコサッカープロ化の前にチーム撤退を決めた。アマチュア最後の試合でクルブ・エスパーニャを4-3で破ったが、スタンドのファンは寂しさを滲ませていた。
1950年代
メキシコリーグの商業化の条件の下でリーグに復帰した。電力連合とフアン・ホセ・リベラ・ロハス氏の新しい所有権の下で、1950年9月25日にグアダラハラの「パルケ・オブラテス」にて復帰戦をし、結果は0点での引き分けだった。この時、メキシコシティー、現在のエスタディオアズール(1950-55年)にホームスタジアムを置き、プレーをした。但し、チームを維持するのに財政的に苦労した。1955年、大規模な借金により、スター選手の大半の売却を余儀なくされ、ミゲル・ラミレス・バスケスが所有権を取り、チーム監督をウルグアイのドナルド・ロスに委ねた。この時、ホームスタジアムをエスタディオ・オリンピコ・ウニベルシタリオ(1955-66年)に移した。チームは1959-60シーズンで、メキシコカップを獲得した。
1960年代
1961年2月2日、ペレが所属するブラジルのサントスを破り、エスタディオ・オリンピコ・ウニベルシタリオで歴史的な偉業を成し遂げた。その興奮はスタジアムに響き渡った。だが、この時期も財政的苦労が続いていた。1965-66年にかけて、フリオ・オルバニャノス氏がオーナーの際、最後まで無敗で行き、レオンに僅差で勝った。その年、クラブ・アメリカを制し、優勝した。
1970年代
1971年から1972年の間、チームは財政難に耐えられず、スペインのアトレティコ、ビジネスマンのグループに売却され、ネカクサが消滅してしまった。チームは「トロスデルアトレティコエスパニョール」という名前でプレーすることになった。1973-74シーズン、クルス・アスルとの決勝に進むも、準優勝となった。1975年、CONCACAFチャンピオンズカップで唯一の国際タイトルを獲得した。
1980年代
メキシコシティー内でスペイン所有権がフランチャイズ売却し、1982年7月21日に、新たなビジネスマンがチームを買収、現在普及しているニックネーム「ラジョ・デル・ネカクサ」の名前を返上した。1982-83シーズン、1984-85年の2シーズン、ネカクサは降格試合にて苦労した。1987-88シーズンで、カエタノレの技術指揮の下、チームは安定した。1988年、ネカクサはグルポ・テレビサに買収され、エミリオ・アスカラガ・ミルモ(エミリオ・アスカラガ・ハエンの父)などが経営陣に加わった。
1990年代
1992年には選手として輝かしい経歴を持つエンリケ・ボルハがネカクサの会長に就任した。セルヒオ・サラーテ、オクタビオ・ベセリール、チリ人のエドゥアルド・ビルチェスとホセ・マリア・イガレーダなどが攻守の中心選手となり、マヌエル・ラプエンテ監督率いるチームは1990年代中頃にクラブの黄金期を築いた。1994-95シーズンのリギージャ決勝ではクルス・アスルを破ってプロリーグ化後初のリーグ優勝を遂げ、1995-96シーズンはアトレティコ・セラージャを破り、インビエルノ1998ではチーバス・グアダラハラを破って、それぞれ2回目、3回目のリーグ優勝を決めた。
2000年には、ブラジルで開催された第1回FIFAクラブ世界選手権に出場した。グループリーグではマンチェスター・ユナイテッドFC(ヨーロッパ代表、イングランド)などを抑えて4クラブ中2位となった。グループA・Bの2位が対戦した3位決定戦ではレアル・マドリード(ヨーロッパ代表、スペイン)と対戦し、ラウル・ゴンサレス、サミュエル・エトー、フェルナンド・モリエンテスなどを擁するチーム相手にPK戦の末に勝利した。2006年大会ではクラブ・アメリカが準決勝に進出(4位)しているが、ネカクサの3位はメキシコのクラブとしては過去最高位である。
2000年代
2003-04シーズン開幕前にフランチャイズをアグアスカリエンテス州・アグアスカリエンテスに移し、エスタディオ・ビクトリアをホームスタジアムとして使用している。2008-09シーズンは2008アペルトゥーラが17位、2009クラウスーラも17位と不振を極め、過去3シーズンの獲得勝ち点率が18クラブ中18位でリーガ・デ・アセンソ(アセンソMX、2部)に降格となった。降格後最初のシーズンとなった2009アペルトゥーラはレギュラーシーズンを3位で終え、リギージャでクルス・アスル、ロボス・デ・ラ・BUAP、イラプアトFCを倒して優勝した。つづく2010ビセンテナリオではレギュラーシーズンを2位で終え、リギージャではBUAP、クラブ・ティフアナ、クラブ・レオンを倒して2シーズン連続の優勝を飾った。2009-10シーズンの前後期を揃って制したことで、1シーズンでのプリメーラ・ディビシオン復帰を決めた。
2010年代
2シーズンぶりにプリメーラ・ディビシオンで戦った2010-11シーズンは、2010アペルトゥーラが15位、2011クラウスーラが17位に終わり、過去3シーズン(ネカクサは過去1シーズン)の獲得勝ち点率が最下位となったことで、わずか1シーズンでのリーガ・デ・アセンソ逆戻りとなった。2011年4月16日のアトランテFC戦は残留に向けて鍵となる試合のひとつだったが、この試合に1-1で引き分けた。降格を回避するために十分な勝ち点を積み上げられず、2010-11シーズン終了後に2度目のリーガ・デ・アセンソ降格となった。2011-12シーズンのアペルトゥーラ2011のレギュラーシーズンは6位、クラウスーラ2012のレギュラーシーズンは3位でリギージャに進出したが、リギージャではアペルトゥーラが準々決勝敗退、クラウスーラが準決勝敗退に終わった。
アペルトゥーラ2014にて、チャンピオンシップを獲得したが、最終的にリギージャで敗れた。アペルトゥーラ2015は10位に終わったが、翌クラウスーラ2015でレギュラーシーズン準優勝となり、リギージャにて優勝を飾った。アペルトゥーラ2015にてリギージャに進出、レギュラーシーズン優勝のファレスを下し、5年ぶりのプリメーラ・ディビシオンへの復帰を決めた。
クラウスーラ2019では、レギュラーシーズン6位となり、リギージャに出場した。モンテレイと対戦し、ホームで勝つも、アウェイでは負けてしまい、そのまま敗退に終わった。 2019年8月3日、アペルトゥーラ2019シーズン3戦目ベラクルス戦では、7-0と大勝を飾った。7点というのは、ホームでの一試合獲得点数として過去最高をマークした。
クラウスーラ2020は、COVID-19の影響により、第10節サントス戦(2020年3月15日)を無観客で行い、その後リーグは再開されずにシーズンを終えた。また、今後5年間はアセンソ昇格、降格が凍結された。コロナ禍の中の2020年7月24日ティグレス戦にて、アペルトゥーラ2020シーズンが開幕した。
タイトル
国内タイトル
アマチュアリーグ時代
- プリメーラ・フエルサ(地域リーグ) : 4回
- 1932-33, 1934-35, 1936-37, 1937-38
- コパ・メヒコ: 3回
- 1932-33, 1934-35, 1935-36
- カンペオン・デ・カンペオーネス: 2回
- 1931, 1935-36
プロリーグ時代
- リーガMX(1部) : 3回
- 1994-95, 1995-96, インビエルノ1998
- アセンソMX(2部) : 4回
- アペルトゥーラ2009, ビセンテナリオ2010, アペルトゥーラ2014, クラウスーラ2016
- コパ・メヒコ : 4回
- 1959-60, 1965-66, 1994-95, クラウスーラ2018
- スーペルコパ・メヒコ : 1回
- 2018
- カンペオン・デ・カンペオーネス : 2回
- 1965-66, 1994-95
- インテルリーガ: 1回
- 2007
- カンペオン・デ・アセンソ : 2回
- 2009-10, 2015-16
国際タイトル
- CONCACAFチャンピオンズカップ: 2回
- 1975, 1999
- CONCACAFカップウィナーズカップ: 1回
- 1994
- 中央アメリカ・カリブ海競技大会: 1回
- 1935
ホームスタジアム
パルケ・ネカクサ
1930年~1942年
エスタディオ・デラ・シウダ・デ・ロス・デポルテス
1950年~1955年、現在のエスタディオ・アスル
エスタディオ・オリンピコ・ウニベルシタリオ
1955年~1966年
エスタディオ・アステカ
1966年~1971年、1982年~2003年
エスタディオ・ビクトリア
エスタディオ・ビクトリアはアグアスカリエンテス市エロエス地区にあるサッカー専用スタジアムである。8,000人収容できた市立競技場のあった場所に2002年5月より建設が始まり、14ヶ月の期間を経て、2003年7月26日に完成した。アペルトゥーラ2003よりクルブネカクサのホームスタジアムとして使用している。25,500人収容可能。スタジアムの名前は、モデログループに25年間の命名権が売却され、そのビールブランドの1つである「ビクトリア」が付けられている。
ユニフォーム
サプライヤーとスポンサー
クラブ創設から1987年まではユニフォームにスポンサー企業名を入れていなかったが、1987年に初めて企業名を入れるようになった。
ユニフォームの変遷
現所属メンバー
- 2021年6月22日現在
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
歴代監督
歴代所属選手
リーグ得点王
- アマチュアリーグ時代
- 1926-27 ミゲル・ルイス 13得点
- 1931-32 フリオ・ローレス 20得点
- 1932-33 フリオ・ローレス 8得点
- 1934-35 イラリオ・ロペス 17得点
- 1936-37 フリオ・ローレス 7得点
- プロリーグ時代
- 1950-51 オラシオ・カサリン 17得点
- 1952-53 トゥーリオ・キニョーネス 14得点
- 1953-54 フリオ・マリア・パジェイロ 21得点
- 1954-55 フリオ・マリア・パジェイロ 19得点
- 1983-84 ノルベルト・オウテス 28得点
- 1992-93 イボ・バサイ 27得点
- ベラーノ2000 アグスティン・デルガド 14得点
- アペルトゥーラ2012 ビクトル・ロヘーロ 11得点
- クラウスーラ2013 ビクトル・ロヘーロ 12得点
- アペルトゥーラ2019 マウロ・キローガ 13得点
その他
- ホアキン・ベルトラン
- アレックス・アギナガ 1989-2003
- ルイス・エルナンデス 1994-1997, 1997-1998
- クアウテモク・ブランコ 1997-1998
- カルロス・パボン 1997-1998, 2009
- アルベルト 1998
- アグスティン・デルガド 1999-2002
- クリスティアン・モンテシノス 2000
- ニコラス・オリベラ 2006
- ヘラルド・ガリンド 2006-2012
- フアン・マヌエル・サルゲイロ 2007
- ウーゴ・ロダジェガ 2007-2008
- ワルテル・ガイタン 2008-2010
- フェデリコ・インスア 2009
- タバレ・ビウデス 2010
- オスカル・ペレス 2010-2011
- ホベルチ 2013
- エドソン・プッチ 2016-2017
- マティアス・フェルナンデス 2017-2018
- イゴール・リチノフスキー 2017-2018
- ミゲル・アンヘル・ポンセ 2017-2018
- ヴェントゥーラ・アルヴァラード 2018-2020
脚注
外部リンク
- 公式ウェブサイト (スペイン語)