源 明 (みなもと の あきら)は、平安時代初期の公卿。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第五源氏)。官位は正四位下・参議。横川宰相入道と号す。出家後の法名は素然。
経歴
淳和朝末の天長9年(832年)に无位から従四位上に直叙され、大学頭に任ぜられる。
仁明朝でも大学頭を務める一方で、承和5年(838年)加賀守、承和6年(839年)近江守、承和9年(842年)播磨守と地方官を兼ね、同年左京大夫に遷る。この間の承和7年(840年)淳和天皇崩御の際に山作司を務めている。承和13年(846年)正四位下・刑部卿に叙任されたのち、承和14年(847年)越中守、嘉祥元年(848年)阿波守を兼ね、嘉祥2年(849年)参議に任ぜられ公卿に列した。
嘉祥3年(850年)3月に兄・仁明天皇が崩御すると、同年12月に出家して法名素然を名乗る。出家後は横川に住んだことから、横川宰相入道と呼ばれた。仁寿2年12月20日(853年2月)に横川で卒去。享年40。
人物
明朗である一方、理解が早く賢かった。父・嵯峨天皇は皇子達に才学があることを望んだが、明に優れた才能があることを知って、勅により対策に挑ませたという。初め勅に従い勉学に励み、諸子百家をほぼ閲覧し終える程であった。しかし、嵯峨上皇が崩御した後に、愛慕して恨み、誰のためにこんな事をしているのか、と言って学業を止めてしまった。のちに、仏道に帰依して俗世間を遠く離れ、遂に出家して山中で没した。人々はその節操を気高いとして、心に感じ慕ったという。
官歴
『六国史』による。
- 天長9年(832年) 正月7日:従四位上(直叙)。大学頭
- 承和5年(838年) 正月13日:兼加賀守
- 承和6年(839年) 正月11日:兼近江守
- 承和9年(842年) 正月13日:兼播磨守。7月:服解(嵯峨上皇服喪)。8月:復任。8月11日:左京大夫。9月8日:兼播磨守。
- 承和13年(846年) 正月7日:正四位下。正月13日:刑部卿
- 承和14年(847年) 正月12日:兼越中守
- 承和15年(848年) 正月13日:兼阿波守
- 嘉祥2年(849年) 2月27日:参議
- 嘉祥3年(850年) 12月:出家
- 仁寿2年(852年) 12月20日:卒去
系譜
注記のないものは『尊卑分脈』による。
- 父:嵯峨天皇
- 母:飯高宅刀自 - 飯高岳足女
- 妻:橘時子 - 橘氏公の娘
- 長男:源舒(828年 - 881年)
- 生母不明の子女
- 次男:源建
- 男子:源頴(? - 879年)
- 男子:源遠
脚注
参考文献
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年
- 森田悌『続日本後紀』(上下巻)講談社学術文庫、2010年
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年