大晃 定行(おおひかり さだゆき、1927年9月24日 - 1996年1月14日)は、北海道上磯郡上磯町(現役当時、現在の北斗市)出身で、出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は柴田 定行(しばた さだゆき)。現役時代の体格は181cm、115kg。最高位は東小結(1958年7月場所)。得意手は突っ張り、叩き、左四つ、寄り、うっちゃり。大相撲屈指の黄金時代といわれる、栃・若時代の名力士として知られている。
引退後は、年寄・阿武松を襲名した。
来歴
地元の高等小学校卒業後自動車の運転手として働いていたが体格が大きくもともと力士志望だったため、同じ渡島支庁の福島町出身の千代ノ山を慕って出羽海部屋に入門し、1944年1月場所に於いて初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名でもある「柴田」。その後、「巴浦」の四股名で1949年1月場所で十両へ昇進、「大晃」と改名した1950年9月場所で新入幕を果たした。181cm、115kgの長身痩躯だった。
初めて幕内上位に上がった1952年9月場所では、4日目に東富士を破って金星を獲得したが、20代の頃はほとんど幕内下位で勝ち越しと負け越しを繰り返す目立たない力士であった。だが、1956年5月場所では西前頭9枚目で12勝3敗と好成績を挙げて、大関・若ノ花(のち若乃花)との優勝決定戦に臨み、敗れて優勝は逸したものの生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞した。30歳を越えた1958年から幕内上位に定着し、同年7月に初の三役入りとなる小結昇進を果たした。以後数年間は幕内上位の常連として、金星は通算5個挙げている。
突っ張ってはたく相撲が多く、この取り口で若乃花から1959年11月場所、6日目の一番で念願の初勝利となる金星を挙げている(エピソードの項参照)。左四つに組むと粘り腰でよく水入りに持ち込み、最後の一番となった昭和38年9月場所千秋楽には若ノ海周治と引き分けている。また、土俵際ではうっちゃりをよく見せ、48番をうっちゃりで決めている(若浪順の61番に次いで史上2位)。
丈夫で休まないことでも知られ、1963年1月場所7日目に史上初めて初土俵から通算1000回連続出場を達成し、翌8日目には土俵上で特別表彰を受けた。記録に関して協会から表彰を受けたのは大晃が初めてといわれる。連続出場は1068回まで伸ばしたが、右アキレス腱を断裂したために同年11月場所を休場、この場所限りで現役を引退した。引退後は年寄・阿武松として出羽海部屋付きの親方となり勝負審判も長く務め、1992年9月場所限りで停年(定年)退職した。
1996年1月14日、逝去。享年68。
闘志溢れる取り口から人気は高かったが、若い頃から額が禿げ上がっていたため、「大光り」とも言われていた。
エピソード
大晃は入門前に運転手の仕事をしていたこともあって、報道陣や後援者が自動車でやって来ると、稽古はそっちのけで自動車をのぞいたり、触ったりするのが好きだった。1959年11月場所前、後援者の一人が「関取、そんなにクルマが好きかい?よし、今場所若乃花(横綱)に勝ったら、クルマをプレゼントしよう」と言われたものの、過去若乃花には決定戦含め10連敗中と全く歯が立たない。この場所東前頭4枚目の大晃、若乃花との対戦は6日目にやって来た。大晃は「負けて元々、イチかバチかこれでいこう!」と腹をくくって土俵に上がった。立合い、長いリーチを生かして若乃花の出鼻を突っ張り、頭を下げて出てくるところを思い切って体を開いて叩いた。すると、あれほど難攻不落だった若乃花がバランスを崩してバッタリと両手をついた。若乃花から初めて白星(金星)を挙げ、約束通り自動車をものにした。
主な成績・記録
- 通算成績:526勝539敗3分15休 勝率.494
- 幕内成績:455勝489敗1分15休 勝率.482
- 現役在位:79場所
- 幕内在位:64場所
- 三役在位:2場所(小結2場所)
- 連続出場:1068回(1944年1月場所-1963年9月場所)
- 三賞:1回
- 敢闘賞:1回(1956年5月場所)
- 雷電賞:1回(1956年5月場所)
- 金星:5個(東富士1個、鏡里1個、若乃花3個)
場所別成績
幕内対戦成績
- 他に優勝決定戦で若ノ花に1敗がある。
※その他に若ノ海と1引分がある。
関連項目
- 小結一覧