永持 源次(ながもち げんじ、1884年(明治17年)7月23日 - 1978年(昭和53年)8月18日)は、明治後期から昭和前期の陸軍軍人、実業家。陸軍砲工学校長。最終階級は陸軍中将。
経歴
東京府出身。旧幕臣・永持明徳砲兵中佐の二男として生まれる。
1896年(明治29年)に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1901年(明治34年)に高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。翌年2月、砲兵少尉に任官し東京湾要塞砲兵連隊付となる。1904年(明治37年)5月、徒歩砲兵独立大隊付として日露戦争に出征。陸軍要塞砲兵射撃学校教官、重砲兵第2連隊付などを経て、1909年(明治42年)11月、陸軍砲工学校高等科(15期)を優等で卒業した。
1910年(明治43年)7月から1913年(大正2年)10月までフランスに駐在。同年10月、東京砲兵工廠に配属され、陸軍重砲兵射撃学校教官に転じ、1918年(大正7年)7月、砲兵少佐に昇進。1922年(大正11年)8月、陸軍野戦砲兵学校教官に就任し、1923年(大正12年)8月、砲兵中佐に進級し陸軍造兵廠員となる。1925年(大正14年)5月、陸軍省兵器局課員に異動し、兵器局銃砲課長に転じ、1926年(大正15年)7月、砲兵大佐に昇進。
1928年(昭和3年)8月、陸軍技術本部フランス駐在官に就任し、横須賀重砲兵連隊長を経て、1931年(昭和6年)8月、陸軍少将に進級し砲工学校砲兵科長に就任。1932年(昭和7年)4月、砲兵監部付となり、造兵廠大阪工廠長に転じ、さらに砲工学校長に就任。1935年(昭和10年)8月、陸軍中将に進んだ。1936年(昭和11年)8月、造兵廠長官に就任し、1938年(昭和13年)12月、待命となり、同月、予備役に編入された。その後、日本製鐵常務、日本特殊鋼管社長、全国軍人恩給連合会長を務めた。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
栄典
- 位階
- 1904年(明治37年)5月17日 - 正八位
- 1905年(明治38年)8月18日 - 従七位
- 1910年(明治43年)9月30日 - 正七位
- 1915年(大正4年)10月30日 - 従六位
- 1920年(大正9年)11月30日 - 正六位
- 1935年(昭和10年)9月2日 - 従四位
- 1939年(昭和14年)1月26日 - 正四位
- 外国勲章佩用允許
- 1918年(大正7年)3月28日 - ノルウェー王国:聖オーラヴ第三等甲級勲章
- 1923年(大正12年)6月7日 - イタリア王国:サンモーリスエラザル勲章オフィシエ
親族
- 妻 永持恒 芳賀栄次郎軍医総監の娘
- 長男 永持忠明(陸軍少佐)
- 娘婿 川上清康(陸軍中佐)
著作
- 著書
- 『九十四年の人生』1979年。
- 訳書
- エム・ドニイー著『工具ノ使用法』東京砲兵工廠、1914年。
脚注
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
関連項目
- 筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧