古賀 定雄(こが さだお、1832年4月(天保3年3月) - 1877年(明治10年)11月18日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の内務官僚。権令。通称・一平。大木民平(大木喬任)、江藤新平と共に「佐賀の三平」と呼ばれた才人。
経歴
佐賀藩士・河内定古の息子として生まれる。祖父は古賀定徳。早くから尊王攘夷論を唱えて活動した 。
慶応4年閏4月3日(1868年5月24日)、日田御領所御用掛を命ぜられるも、着任することなく長谷川範蔵に差し替えとなる。同年6月、下総野鎮撫府付となる。同年8月8日(9月23日)、旧代官の松村忠四郎に代わって武蔵知県事に就任し、その管轄区域が明治2年2月(1869年)品川県となる。
明治4年5月、藩主鍋島直正が没した佐賀藩の大参事に転じた。廃藩置県・府県統合を経て佐賀県参事となり、維新政府の方針による県政を推進したが県民の反感を買い、同年7月12日(8月15日)に免官となる。同年7月25日(8月28日)、宮内少丞に就任。1年あまり後、ごく短期間足柄県参事に任ぜられたが免官、位記返上となる。
1874年11月、名東県権令に就任し、翌1875年9月に香川県権令となったが、病気を理由に同年10月に依願免官となった。墓所は青山霊園(1イ1-2)。
職歴
- 明治元年8月8日 - 知県事(所轄は明治2年2月より品川県となる区域)
- 明治2年7月20日 - 品川県権知事
- 明治4年5月17日 - 品川県知事
- 明治4年5月19日 - 佐賀藩大参事(7月14日、廃藩置県により佐賀県大参事となる)
- 明治4年11月14日 - 伊万里県参事(翌5年5月29日、佐賀県に改称)
- 明治5年7月12日 - 免官、御用滞在
- 明治5年7月25日 - 宮内少丞
- 明治6年5月17日 - 免官
- 明治6年11月29日 - 足柄県参事
- 明治6年12月19日 - 免官、御用滞在
- 明治7年9月7日 - 位記返上
- 明治7年11月24日 - 名東県権令
- 明治8年6月5日 - 兼五等判事
- 明治8年9月5日 - 香川県権令兼五等判事
- 明治8年10月20日 - 依願免官
親族
- 孫 山村聡(俳優、長男・古賀千年の長男)
脚注
注釈
出典
参考文献
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 「履歴書 / 佐賀県士族古賀定雄」早稲田大学図書館ホームページ 古典籍総合データベース 2014年3月21日閲覧