平帝(へいてい)は、前漢の第14代皇帝。漢の第11代皇帝である元帝の孫にあたる。諱は、箕子であったが、帝位についてから、衎(かん)に改名した 。漢の第13代皇帝であり、従兄にあたる哀帝の後を継いで漢の皇帝位につくが、帝位の期間、実権は完全に王莽に握られ、母の一族も王莽によって殺害され、平帝もまた、14歳にして死去した。
前漢の実質的な最後の皇帝であり、王莽に毒殺されたという説も存在するが、平帝の在位期間に、漢王朝は盛大を極めたとも伝えられる。
平帝の在位期間に行われた王莽の礼制や官制を中心とした諸改革は、後に、「元始故事」や「元始中の故事」と呼ばれ、後漢に受け継がれ、さらに「漢魏故事」「漢魏旧制」として、後世の中国の王朝にも大きな影響を与えている。
生涯
中山王時代
劉箕子の母の衛姫の父の衛子豪は、中山国盧奴県の出身であり、官職は衛尉に至った人物であった。衛子豪の妹は、宣帝の倢伃(高位の側室)となり楚王劉囂を生み、衛子豪の長女もまた、元帝の倢伃となり、平陽公主を生んでいた。劉箕子の父の中山孝王劉興に子がなかったため、劉興の兄にあたる成帝が、(子を産む)衛氏の吉祥により、衛子豪の下の娘にたる衛姫を劉興にめあわせた。
元延4年(前9年)、元帝の末子である中山孝王劉興と、有力官僚の娘であった衛姫の間に生まれる。箕子と名付けられた(当時はまだ即位していないが、以下便宜上「平帝」と記載)。
元延5年(前8年)、父の中山孝王劉興が死去し、平帝はわずか2歳あるいは3歳で中山王の爵位を継いだ。平帝には病があったため、祖母の馮氏(中山孝王劉興の母)が自ら養育し、しばしば祈祷を行ったという。
しかし新たに哀帝(平帝の従兄)が即位すると、中郎謁者の張由が中山国にいた平帝の治療に訪れたものの、張由にはパニックを起こしやすい体質であり、中山でもこれを発症して長安に引き返してしまった。これを叱責されたため、張由は「馮氏が、哀帝と傅太后(哀帝の祖母)を呪詛していた」と誣告した。傅太后はかねてより馮氏を恨んでおり、誣告を受けると中山国の官僚たち多数の取り調べを行い、結果馮氏は自害した。この告訴により、張由は関内侯の爵位を受け、史立は中太僕に昇進した。
皇帝即位
元寿2年(前1年)6月、哀帝が死去し、哀帝に後継ぎがなかったため、哀帝の腹心であった大司馬の董賢に代わって漢の政治の実権を握った太皇太后の王政君と新都侯王莽は、中山王であった劉箕子(平帝)を新たな皇帝に擁立した。王莽は政治を壟断しようと考え、成帝の皇后であった趙飛燕、董賢の一族や哀帝の外戚であった丁氏・傅氏らを免官とした。
平帝は当時9歳であり、朝廷の実権は太皇太后の王政君と大司馬の王莽が握った。即位すると平帝の名で大赦が出され、「小さな悪事で有能な人物が妨げられる事があってはならない。大赦以前のことは、今後は奏上することはないようにせよ」との詔が発された。
元始の政治の開始
元始元年(1年)正月、益州の越裳氏が通訳を通じて、白雉一羽、黒雉二羽を献じた。(平帝の名で)詔が行われ、三公に命じて、白雉と黒雉を宗廟に備えさせた。群臣たちが、王莽の功績は周の周公旦に匹敵するものであると奏上したため、安漢公の号を与え、太師の孔光たちの封じた土地を増やした。20世紀の日本の中国史学者である東晋次は、「白雉は瑞鳥であるという伝承は、この時代には既に定着していたと考えられる」「王莽は平帝を周の成王(周の第2代の王、武王の子)、自身をその成王を補佐した周公旦になぞらえようと試みていた」と論じている。
6月、少傅・左将軍の甄豊を朝廷から派遣し、中山孝王姫であった母の衛姫に璽綬を与え、中山孝王后に任じた。また、衛姫の兄弟である衛宝とその弟である衛玄は関内侯の爵位を与えられた。また、平帝の三人の妹にあたる劉謁臣は修義君に、劉皮は承礼君に、劉鬲子は尊徳君に封じられ、各々食邑各二千戸が与えられた。
元始2年(2年)、諱の『箕子』は様々な場で用いられている漢字であるため、忌諱の都合を考慮して『衎』と諱を改める詔を発した。同年4月、王莽の提案を容れて各地の皇族の封爵、および宣帝代の宰相霍光の同族の霍陽、漢初異性王の一人の張耳の子孫の張慶忌、建国の功臣であった樊噲の五世の孫の樊章、同じく建国の功臣の周勃の玄孫の周共らの列侯を行った。東晋次は「これら王朝の功臣の子孫らへの封爵は、崩壊しかかった漢王朝の再建を目的としていたと考えられる」と論じている。
同年、各地で猛暑と蝗害が相次ぎ、青州では民衆が流亡する事態となった。王莽を始めとする重臣たち230人余りは、自身の私有する田地を国庫に献上して民衆に施し、また民衆がイナゴを捕らえて官吏に差し出した場合は、その量を計って銭を与える事を布告した。また財産を一定以上持たない民衆からの租税の免除、疫病に疾患した民衆の収容・手当の支給、死者が出た家庭への葬儀費用の支援、安定郡や首都長安の貧民の移住区域としての開放、田宅や什器・犂・牛・種もみ、食糧などの支給・貸与などの、人命救済のための政策を実施した。
後漢代に編纂された「漢書」によれば、この年は前漢としては盛大を極めたと伝えられ、郡や国の数は103、県や邑の数は1,314、道は32、侯国は241。地は東西9,302里、南北13,368里。領土は、1億4,513万6,405頃であり、その1億252万8,889頃の大部分は、宅地・道路・山川・林沢などで耕作できない土地であった。3,229万947頃は開墾できる土地であり、開墾済みの土地は827万536頃であった。民は1,223万3,062戸、人口は5,959万4,978人いた。
皇后選定と母の一族の粛清
元始3年(3年)、王莽の提言により平帝の皇后選びが進められる。後宮入りする女性たちの中には王莽の娘の名もあったが、王莽はこれを辞退し、太皇太后の王政君もまたこれを辞退した。しかし 宮殿正門には毎日千人以上もの民衆・官吏らが、王莽の娘を後宮に入れるようにと上書してきたため、王政君はやむなく王莽の娘の後宮入りを認めた。公卿たちは王莽の娘を皇后に選ぶよう進言し、また占いを行ったところ吉とでたため、王莽の娘の皇后に冊立が決定したとされる。
同年、王莽の長男の王宇や彼の義兄(妻の兄)の呂寛、王宇の師である呉章が、平帝の母の衛姫を長安に入れるよう働きかけるために、奇怪なことで王莽を脅そうと、王莽の屋敷に血液を塗布するという事件が発生する。事の発覚後王宇は自害し、王宇の妻も処刑され、呂寛も捕まった。王莽はこの事件に乗じて、自身の邪魔になる人間たちを濡れ衣を着せて処刑や自害に追い込み、この際に平帝の母の衛姫の兄弟であった衛宝・衛玄ら衛氏一族を、衛姫を除いてことごとく誅殺した。
王莽が宰衡となる
元始4年(4年)正月、高祖劉邦と文帝劉恒の郊祀を行った(天子七廟制)。また詔を発し、犯罪者の親族に関しては拘留を禁止し、自宅での取り調べに限定する旨を告知した。
2月、王莽の娘の王氏を皇后に立て、大赦を行う。4月、太保の王舜らが王莽に殷の伊尹・周の周公旦に倣って大賞を与えるべきであると奏上した。さらに、民に(同様のことを)上書するものが八千余人もあらわれ、公卿たちもみな言った「伊尹は阿衡、周公旦は太宰となりました。(王莽に)同様の大賞を与えられますように」。
官僚たちに検討させると、官僚たちは「大礼を明らかにするため」と言って、次のように要請してきた。
- 王莽が先に辞退した三万戸の領地を再度、与え、王莽に、伊尹の「阿衡」、周公旦の「太宰」の称号をあわせた「宰衡」に任じ、三公の上位とすること。
- 宰衡の属官は全て秩禄を六百石とし、三公が王莽に語りかえる時は、『敢言之(あえてこれをいう)』と称することにする。
- 全ての官吏は、王莽と同名を名乗らないこと。
- 王莽の母は、『功顕君』と号して、二千戸の領地を与え、特別に、黄金の印に、赤い綬(印につける組み紐)を使うこと。
- 王莽の公子(息子)である王安は褒新侯、王臨は賞都侯といった列侯に封じる。
- 皇后の聘金として、3,700万銭増して、合わせて一億銭とすること。
王莽は、はじめは母の「功顕君」の号以外は辞退するが、王政君や太師の孔光の要請により、ついに、応じた。王莽は、宰衡と太傅・大司馬を兼ねることになり、『宰衡太傅大司馬印』を新に身に着け、その綬(印の組み紐)は相国のものと同様とした。
また王莽の奏上により、周の時代に存在した明堂と辟雍が再建された。群臣は「周公旦ですら7年もかけて制度を定めたのに、千年に渡って再建されなかった明堂と辟雍を、わずか4年で再建した安漢公(王莽)の功徳は、堯や舜の事業をもってしてすら及ばないものです」と上奏し、平帝は王莽への九錫(『周礼』や『礼記』にもとづいた君主が大功ある元勲に授ける栄典)の授与の議論を命じた。
国土西境に新たに西海郡を設置し流刑地とした。その結果流刑となる者が数千~数万人に及び、人々は怨みを抱いた。
王莽に九錫を賜う
元始5年(5年)正月、明堂において祫祭(先祖代々の廟を祀る、数年に一度の大祭)を執り行う。『漢書』王莽伝によればこの時、多数の民衆や官吏、皇族や貴族らが、一同に叩頭して王莽に賞賜を加えることを願い出てきたという。王莽は自分には功績がないとして、九錫についての議論を中止し、自分はただ「制礼作楽」に尽力したいと願ってきた。最終的には甄邯ら王莽の腹心たちが王政君に働き掛け、結果、平帝の詔という形で王莽への九錫が実施された。
突然の死
同年の冬頃、平帝は重い病にかかった。漢書によればこの時、王莽は「願わくは身をもって代わりたい」と称する張り紙を前殿に置き、この事を他言しないよう諸公に語ったとされる。同年12月、未央宮にて平帝は死去した(享年14歳)。
そして国内では大赦が行われた。役人たちは議論し、「礼では、臣は君主を若死にしたとしてはいけない。皇帝(平帝)は、年14歳であったのだから、礼にのっとって葬儀を行い、元服を着せなくてはいけない」と言った。そして「皇帝は心優しく恵み深く、何事についても哀れないことはなく、病むごとに、気は逆上し、言語に障害があり、遺詔もなかったのである。側室を後宮から全て、家に帰して、誰かの夫人とさせることを文帝の故事にならうように」との詔が発せられた。
平帝毒殺説
平帝の死については、古来、王莽による毒殺説がある。
漢書の平帝紀に注釈を行った顔師古によると、「漢注によると、平帝は成長すると、母の衛姫の一族が王莽に殺害されたため、王莽を怨み憎んでいた。王莽も自分がうとんじられていることを知り、それゆえに平帝を殺害しようと考えた。王莽は、臘日の祀りの時に、椒酒(山椒などを調合した酒)を平帝に献上し、酒の中に毒をいれていた。それゆえ、(後に王莽を攻撃した)翟義の檄文に、『王莽は孝平皇帝(平帝)を鴆殺(毒殺)した、と書いたのだ』としている。司馬光の『資治通鑑』でも表現は微妙に異なるが、同様の「漢注」の意見を採用し、王莽が平帝を毒殺したことになっている。
しかしながら、『漢書』「平帝紀」・「元后伝」・「王莽伝」には何らそのようなことは書かれていない。
東晋次は「むしろ、(『漢書』の)外戚伝の馮昭儀の伝によれば、平帝は幼時、眚病を患ったという記述があり、(中略)病弱であったことは否めないであろう。病弱であったいまひとつの証拠として、『後漢書』城陽恭王劉祉の伝に、(中略)、「太后(元后)も高齢であるし、帝(平帝)も幼くて病弱である云々」と伝えられている。(中略)
このように、定かではない平帝毒殺の「事実」を以て王莽の人柄やその政治家としての悪辣さをあげつらうのはどうであろうか。もとより宮中での出来事であるから、真相の解明は不可能であろう(後略)」と論じている。
家族
后妃
- 王氏(王莽の娘)
参考文献
- 東晋次『王莽―儒家の理想に憑かれた男』(白帝社アジア史選書)、白帝社 、2003.10
- 渡邉義浩『王莽―改革者の孤独』(あじあブックス)、大修館書店、2012.12
- 渡辺信一郎『中華の成立 唐代まで』(シリーズ中国の歴史①)、岩波新書、2019.12
脚注