織田 信福(おだ のぶよし、1860年3月1日(安政7年2月9日) - 1926年(大正15年)1月13日)は日本の民権運動家。高知県最初の歯科医でもある。
来歴
万延元年(1860年)2月9日、土佐国幡多郡宿毛(現・高知県宿毛市)にて誕生した。初名は羽田馬三郎。1868年には宿毛の伊賀家の家臣として仕えていた。1873年12月28日には、羽田信福が幡多郡宿毛村第208番小学下等小学第七級を卒業していたことが判明している。1880年に高知に転居し、幕末から明治時代の医師であった山崎立生の門楽生となったが、翌年12月に立生は死没した。行く当てがなくなった信福は、1884年から1885年に掛けて上京し、高山紀齋に師事した。また、1885年3月31日に信福は第2回歯科医術開業試験に合格し、25歳で歯科医籍として登録された。また同年11月25日、山崎立生とその妻鹿の次女である竹と結婚した。高知女子師範学校を卒業した竹は信福との結婚や植木枝盛と出会ったことで自由民権運動に目覚め、1888年5月11日に高知県婦人会を発足するなど、当時では画期的な女性だった。二人は夫婦で民権運動に参加していた。1887年、信福は若い医師たちと共に手作りした爆弾を持って上京し、政府に対して直接的な行動に出ようとした。しかし保安条例によって作戦は失敗に終わり、当局から退去命令を受けた信福たちは爆弾を帰り道や琵琶湖に捨てていった。
1886年3月18日、町田眼科にて歯科を開業し、土陽新聞に広告を掲載した。同年11月には移転した。1899年1月13日に長女である富士が誕生した。富士以外に二人の間に子供は無く、養女の猪佐を含めた4人家族であった。1903年11月2日には高山紀齋が会長を務める大日本歯科医会及び信福が会長を務める大日本歯科医会高知部が同時に発足した。1908年6月10日、竹が42歳で死去した。二人の間には跡取りとなる息子がいなかったため、娘を歯科医と結婚させて、その夫となった人物を婿養子とした。1915年12月8日、高知県歯科医師会が設立され、信福はその会長に就任した。1925年12月に高知市升形に織田歯科医院ビルが落成した。翌年1月13日、信福は66歳でこの世を去った。2016年11月18日、信福の生前使われていた、高知市升形に残る織田歯科医院の主屋を含めた177件の建造物が有形文化財として登録されるよう答申され、近代洋風建築物では高知県初の文化財として登録されることとなった。
評価
インターネット上での再評価
信福のひ孫で織田歯科医院院長は、歯科医院のホームページに信福の写真や経歴などを掲載した。これが女性を中心に主に信福の容姿が話題となり、メディアで取り上げられるようになった。2016年夏、高知市立自由民権記念館「友の会」は、信福の人気にあやかり、同じ高知県出身の自由民権家である板垣退助と共に、写真を使ったクリアファイルを一部300円、2点セットで500円で販売した。信福のクリアファイルは板垣の倍にあたる約200部売れた。またこれが切っ掛けで、歴史や自由民権運動に注目が集まることが期待された。
関連項目
- 三大事件建白運動
脚注
外部リンク
- 織田歯科医院