稼働遺産(かどういさん)は、文化遺産(主として産業遺産)の中で現在も使われている状態にあるものを指す。

解釈

稼働遺産は英語の「operational heritage(operated heritage)」の対訳語になる。厳密な定義はないが、歴史的背景がある、

  1. 操業中の機械設備、
  2. 水利施設のように自然作用で流動しているもの、
  3. 不動産・構築物で受動的な用途のもの(例:農地・橋梁・駅)

などが対象となり、動態保存より実利性があるもの。「稼動」の字をあてることもあるが、意味としては「稼働」の方が適切。

日本で用いられるようになったのは、1993年(平成5年)に文化財保護法に基づく重要文化財に近代化遺産の概念が導入されたことで産業遺産が注目され、関心が文化財指定外の操業中の工場へと広まり、「大人の社会科見学」的な風潮が浸透したことによる。
但し、1999年(平成11年)に上梓された産業遺産本の嚆矢、『産業遺産 未来につなぐ人類の技』(東京国立文化財研究所/大河出版)と『産業遺産-「地域と市民の歴史」への旅』(加藤康子/日本経済新聞社)いずれにも稼働遺産の文言はなく、2005年(平成17年)7月15日に開催した「九州近代化産業遺産シンポジウム」において国際産業遺産保存委員会のスチュアート・スミス事務局長が講演の中で触れたことがほぼ初出となる。
そして2007年(平成19年)に九州・山口の近代化産業遺産群(その後「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に名称変更)が世界遺産の候補となり、そこに稼働中の施設が含まれていたこともあり「遺産」という言葉が定着した。

稼働資産稼働文化財という名称もあるが、稼働資産は税務用語(収益のある土地や施設を指す)として使われており、稼働文化財の場合はそもそも文化財保護法で操業中の機械を文化財と見做しておらず、可動文化財との混同も避けたいことからも稼働遺産が適当であろう。

実例

世界遺産に登録されているものの一例として、水利関係ではカナダのリドー運河、農地ではスイスのラヴォー地区の葡萄畑、橋梁ではスペインのビスカヤ橋、駅ではインドのチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅、その他にドイツの製靴業ファグス工場やスイスの時計製造業都市ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックルなどが現役で稼働している。

国内では土木景観や農業景観が文化財保護法での重要文化財(那須疏水など5件)・史跡(見沼通船堀など4件)・名勝(白米千枚田など2件)・重要文化的景観(近江八幡の水郷など8件)に指定されている事例がある。

日本の経緯と対応

明治日本の産業革命遺産では、旧官営八幡製鉄所の旧本事務所・修繕工場・旧鍛冶工場・遠賀川水源地ポンプ室、三池港、長崎造船所の向島第三ドック・旧鋳物工場併設木型工場・ハンマーヘッド型起重機(ジャイアント・カンチレバークレーン)・占勝閣、橋野高炉跡及び関連施設、および旧集成館に含まれる関吉の疎水溝が稼働遺産とされている。これらは現況の使用状況に係らず民間が所有しているという前提であり、長崎造船所の旧鋳物工場併設木型工場のように実際には資料館となっており生産施設ではないものもあり、三角港のように船舶の発着があり港として稼働していながら港湾管理が行政にあることから稼働遺産とはされなかったものもある。

世界遺産推薦にあたっては当該国の法的保護根拠が求められ(完全性)、日本では文化財保護法を拠所としてきたが、国宝・重要文化財に指定されると建築物であれば消防用設備設置や耐震工事を除き増改築などの現状変更(建築行為)が制限されるため、稼働遺産では生産に支障をきたす恐れもあり所有者側が指定を拒むこともある。1996年(平成8年)の文化財保護法改正で所有者が申請し一定の改修を認めた登録有形文化財制度が導入され、これは建物外観のみを残すファサード保存的なものでも構わないが(アダプティブユース)、世界遺産では認められない(真正性)。また、文化財保護法が稼働機械類を対象としないことから、これに倣い自治体の文化財保護条例でも殆どの場合で対象とはなっていない。

このため2010年(平成22年)9月10日に当時の民主党菅直人内閣下で、規制・制度改革に関する分科会による「産業遺産の世界遺産登録に係る運用の見直し」の検討を開始、10月21日には「産業遺産の世界遺産登録に向けた文化財保護法中心主義の廃止」が示された。2011年(平成23年)3月7日に「産業遺産の世界遺産登録等に係る関係省庁連絡会議」が開催され、4月8日に九州・山口の近代化産業革命遺産群は文化財保護法以外の保全方策を検討する旨を「規制・制度改革に係る方針」で閣議決定した。
2012年(平成24年)2月9日、野田内閣の「特区・地域活性化・規制改革小委員会」は、稼働中の産業遺産の世界遺産への登録に関して文部科学省と外務省との調整を指示。5月25日の閣議決定事項「稼働中の産業遺産の世界遺産登録推薦に係る新たな枠組みについて」で、世界遺産登録推進は文化庁ではなく内閣官房地域活性化統合事務局が担当することになり、これをうけ地域活性化統合事務局内に「産業遺産の世界遺産登録推進室」を置き、「稼働資産を含む産業遺産に関する有識者会議」・「資産に係る産業に関連する審議会」・「資産の保全手法に関する審議会」が新設された。

2012年(平成24年)末に発足した安倍内閣は前政権の施策を継承し、2013年(平成25年)の6月から7月にかけ国土交通省の交通政策審議会の港湾分科会が三池港、海事分科会が長崎造船所、経済産業省の産業構造審議会が八幡製鉄所の保護方法について検討。世界遺産推薦のために景観法を改正し、港湾法や公有水面埋立法も適用することが決まった。また、稼働遺産への税制上の特例措置(固定資産税等の減免)もとられることになり、PPP(官民パートナーシップ)の推進も決まった。

2013年(平成25年)9月17日、同時に世界遺産推薦候補に上がっていた長崎の教会群とキリスト教関連遺産と勘案した結果、稼働遺産を含む明治日本の産業革命遺産を政府として正式に推薦する政治決着が成され、同月20日に外務省において開催された「世界遺産条約関係省庁連絡会議」も了承。2014年(平成26年)1月29日に推薦書をユネスコへ提出、9月26日から10月5日までユネスコ諮問機関のICOMOSの現地調査が入り、2015年(平成27年)5月4日には登録勧告が出され、6月28日から7月8日に開催された第39回世界遺産委員会において登録が決定した。

世界遺産に登録された日本の稼働遺産

アイコンがあるものは、通常見られる範囲での撮影画像(望遠レンズ撮影含む)を下記ギャラリーに掲載した。
*橋野鉄鉱山の画像は釜石市が主催した見学会の際に撮影したもので、常時見られるものではない。

今後の課題と対策

明治日本の産業革命遺産が世界遺産に推薦された時点で既に拡張登録を望む声があり(稼働遺産ではないが東日本大震災からの復興の契機としたい福島県いわき市の常磐炭田など)、稼働遺産の世界遺産登録に尽力し内閣官房参与も務めた加藤康子は黒部ダムの可能性を示唆、京都では琵琶湖疎水(国内唯一の運河法適用)の登録を目指しており、開業50周年を迎えた東海道新幹線の可能性も浮上するなど、今後稼働遺産の保護は必然的となる。

世界遺産条約関係省庁連絡会議参加省庁や稼働遺産を有する自治体は有効な法律の活用を検討しており、これまでに工場立地法や民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律(PFI法)などが浮上している。
この他、政府はものづくり支援を掲げものづくり基盤技術振興基本法を整備しており、国家戦略特区に提案された「歴史的建築物活用特区」が採用されれば稼働中にある工場などを取り込むことも可能であり、産業観光による地域おこしを推進する観光立国推進戦略会議(国際競争力のある観光立国の推進)は「産業遺産、産業施設を観光資源として積極的に活用する」とし、全国産業観光サミットが採択した定義では「生産現場(工場・工房等)」を含めており、観光産業推進会議も対象に「産業設備・機械などものづくりの製造現場」を上げている。これらの提言から観光立国推進基本法が制定されているが、現時点で直接的に産業遺産を支援するための運用はされていない。その一方で、生産現場には危険性や企業秘密に抵触する部分もあり、どこまで開放公開するかは各企業判断に委ねられる。

ユネスコ事業の一つである創造都市ネットワーク(クリエイティブシティネットワーク)は法的拘束力こそないが、地域に根差した文化産業を活かし社会的経済的発展を目指すもので、技術と芸術が融合した文化的産物を生み出す都市を対象とすることから、中小企業や町工場が保護されることに繋がる。例えば音楽部門で認定されているイタリアのボローニャでは、職人による個人経営の楽器工房を中心に関連産業が独自に成長し、繊維業や家具製造に始まりフェラーリやドゥカティの部品生産、その設計を請け負うコンピュータ技術からIT産業まで展開し複合産業都市となり、法人税収益によって工場の維持支援や町並み保存に還元されており、日本の伝統工芸を支える稼働遺産保護の在り方の参考になる。

一方、稼働させ続けるため今後故障した際に機械類の部品交換を行うことは純正品であっても、オーセンティシティ(真正性)の観点からすると価値を損なったと見做されかねないことは真正性の奈良文書や国際産業遺産保存委員会の「ニジニータギル憲章」で確認されており、企業と行政による文化資材の選定と管理の徹底も求められる。

明治日本の産業革命遺産の実地調査を行ったオーストラリア・イコモスは、「稼働遺産保全への取り組みは企業の社会的責任のみならず、経営方針を左右する株主の社会貢献意識も重要である」と言及しており、三菱重工の長崎造船所分社化計画など企業の経営体制が世界遺産へ影響を与えかねない可能性もある。さらに、八幡製鉄所を候補とした際に今井敬新日鐵住金名誉会長は「うちが遺産になったらお終いだ」と激怒したという。遺産という言葉に稼働施設を持つ企業が過剰反応したもので、そうした誤解を払拭する必要もある。

また、今回の世界遺産登録の過程で、長崎造船所(第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン、旧木型場)、三池炭鉱(三池港)、八幡製鉄所(具体的な施設名の提示なし)は強制徴用があった場所として韓国が猛反発し、その史実の表記をすることで妥協したが、どのような記述になるのか、またその表現次第で韓国が2017年の記憶遺産登録を目指す『日帝時被徴用者名簿』『倭政時被徴用者名簿』『国務総理所属の対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者支援委員会作成名簿』の動向に影響を与えかねない杞憂もある。

脚注・出典

参考資料

  • 稼働中の産業遺産の世界遺産への登録について (PDF) - 内閣官房地域活性化統合事務局
  • 稼働中の産業遺産の世界遺産登録推薦に係る新たな枠組みについて (PDF) - 内閣官房地域活性化統合事務局
  • 稼働中の産業遺産又はこれを含む産業遺産群を世界遺産登録に向けて推薦する場合の取扱い等について (PDF) - 総務省
  • 稼働中産業遺産の保全の在り方に関するUNESCO&ICOMOS関係者のご意見概要〈総論〉 (PDF) - 産業遺産国民会議

関連項目

  • 産業遺産
  • 世界遺産
  • 文化財
  • リビングヘリテージ

外部リンク

  • 産業考古学会
  • 全国近代化遺産活用連絡協議会
  • 機械遺産 - 日本機械学会
  • 土木学会選奨土木遺産 - 土木学会
  • 水土里の文化遺産 - 農林水産省

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