レオ・アーネスト・ドローチャーLeo Ernest Durocher, 1905年7月27日 - 1991年10月7日)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ウェストスプリングフィールド出身のプロ野球選手(遊撃手)、監督。右投右打。

ニックネームは「Leo the Lip(レオ・ザ・リップ)」。

経歴

現役時代

1925年に19歳でニューヨーク・ヤンキースからデビューする。その後2年間のマイナー暮らしの後、1928年からヤンキースの遊撃手として2年間活躍した。持ち前の気の強さからか、ドローチャーに腕時計を盗まれたとするベーブ・ルースを毛嫌いしてひと悶着を起こしたり、デトロイト・タイガースのタイ・カッブを野次ってカッブに詰め寄られるなどしていた。その割に自身の打撃成績はぱっとせず、当時殺人打線と呼ばれたヤンキースの中でも最も打てない選手の一人で、ルースからは「オール・アメリカン・アウト」とあだ名をつけられていた。

1930年からシンシナティ・レッズに約3年在籍、その後1937年まで、当時「ガスハウス・ギャング」として有名だったセントルイス・カージナルスの遊撃手を務めた。その後、1938年にブルックリン・ドジャースへ移籍し、翌1939年から選手兼任監督となって、1945年まで試合に出場していた。MLBオールスターゲームには1936年・1938年・1940年の3度選ばれている(1940年は出場せず)。

現役時代守りの選手だったドローチャーの特筆すべきプレーは、レッズ在籍時の1931年9月6日、カージナルス戦で「隠し球を使って三重殺を完成した」プレーである。この試合の6回表、無死一塁三塁でカージナルスのジミー・ウィルソンがレフトにフライを打ち上げ、これを左翼手のニック・カロップが捕球、タッチアップした三塁走者ジム・ボトムリーは本塁で封殺される。この間に一塁のチック・ヘイフィーは二塁を陥れ、捕手から遊撃手だったドローチャーに送球されるも走者はセーフとなる。ドローチャーはこの後捕球したボールを投手に返さず、二塁手のトニー・クッチネロにこっそりと手渡し、気づかなかったヘイフィーが離塁したところを二塁手がタッチしまんまとアウトにした。隠し球が絡んだ三重殺は、メジャーリーグ史上このプレーともう一例の計2例のみである。

監督時代

ドローチャーは1939年、33歳の若さでブルックリン・ドジャースの監督(当初は選手兼任)に就任し、3年目の1941年にはチームをナショナルリーグ制覇に導いた。

ところが、1947年シーズン開幕前に突然姿を消してしまう。ハッピー・チャンドラーコミッショナーが調査した結果、ドローチャーは新進女優のラレイン・デイと手を取って駆け落ちしていたことが判明した。他の理由も含め、チャンドラーはドローチャーに「1947年シーズンの出場停止」という裁定を下した。ところが、皮肉にも代理監督の下でドジャースはリーグ優勝してしまい、ドローチャーがデビューを後押ししていたジャッキー・ロビンソンも、この年にMLBデビューを果たしている。

1948年途中、ライバルチームのニューヨーク・ジャイアンツに引き抜かれた。

1951年にナショナルリーグ優勝決定プレーオフで古巣・ドジャースと対戦して2勝1敗で破り、リーグ制覇を果たす。プレーオフ第3戦では9回裏の2-4で2点リードされた状況でボビー・トムソンが打席に入る時に「今、君がここで逆転サヨナラ本塁打を打つと神のお告げがあった」とトムソンに囁いたと伝えられている。現実もその通りとなり、「世界中を駆け巡ったホームラン」と表現された。

1954年にはワールドシリーズでクリーブランド・インディアンスを4勝0敗で破り、ワールドチャンピオンに輝いた。

1955年にジャイアンツの監督を退いたあと、1961年から4年間ロサンゼルス・ドジャースのアシスタントコーチを務めたのち、1966年にシカゴ・カブスの監督に、1972年途中にはヒューストン・アストロズの監督に就任、1973年まで監督業を務めた。ドローチャーは熱血漢としての側面もあり、退場となった回数は通算で124回にも及ぶ。(2007年現在、ボビー・コックス、ジョン・マグローについで歴代3位。)

ドローチャーは1991年10月7日、カリフォルニア州パームスプリングスで死去した。86歳没。死後の1994年に、監督としてベテランズ委員会の選考によってアメリカ野球殿堂入りを果たしている。

太平洋クラブライオンズ監督

1976年には太平洋クラブライオンズがドローチャーを監督に招聘しょうへいした。契約までこぎつけたものの、直後にドローチャーは病気で倒れてしまい、結局ドローチャーがついに来日することはなかった。用意されていた背番号は2

ドローチャーの招聘をライオンズのフロントが発表した時、日本の野球ファンや野球マスコミからは驚きの声が上がったものの、一方で「はったりではないか」という疑問の声も上がっていた。果たしてドローチャーの来日は実現しなかったためにマスコミから「話題作りではないか」と批判の声が上がった。当時、太平洋クラブの選手だった真弓明信が2012年に「ドローチャーの時は最高やったね。キャンプになっても監督が来ないんだから。で、ある時、監督から話があるからということで、選手が集められて行ってみると、そこにはテープレコーダーだけが置いてあって、英語で何かバーッとしゃべってさ。テープの声を聞いただけで、おじいちゃんだってわかるぐらいの年寄り」「こんな言い方したら悪いけど、初めから鬼頭さんが監督をしとったら、話題性がないんで、ドローチャーの名前を使ったんじゃないかのかなぁ」と語っている。しかし、オーナーの中村長芳や青木一三、坂井保之らは強く否定しあくまで「病気のために来日断念となった」と主張した。メジャーリーグ通の伊東一雄も、このドローチャーとライオンズの契約書を坂井から見せられ、それは紛れもないドローチャーの署名と共に年俸5万ドルとあったという。

ドローチャーの後任監督はヘッドコーチの鬼頭政一が就任したが、太平洋クラブはこのドタバタ劇もあってチームの士気が上がらず、最下位に転落した。

なお、ドローチャーはこの時71歳で、生まれた1905年は日本の元号にして明治38年で1976年当時明治生まれの監督、コーチはすでに各球団から姿を消していた(当時の球界最高齢は1912年〈大正元年〉生まれで64歳の阪急・西村正夫2軍監督である)。

詳細情報

年度別打撃成績

記録

  • ワールドシリーズ出場:2回(1928,1934年)
  • オールスターゲーム出場:2回(1936,1938年)※1940年は選出のみ
  • 最高守備率(遊撃手):3回(1933,1936,1938年)

年度別監督成績

背番号

  • 7 (1929年)
  • 10 (1932年 - 1933年途中)
  • 2 (1933年途中 - 1955年、1966年 - 1973年、1976年)

脚注

関連項目

  • メジャーリーグベースボールの選手一覧

外部リンク

  • Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
  • 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
  • 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com
  • SABR.org (三重殺記録)

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