盛厚王(もりひろおう、1916年〈大正5年〉5月6日 - 1969年〈昭和44年〉2月1日)、または東久邇 盛厚(ひがしくに もりひろ)は、日本の旧皇族、照宮成子内親王の夫。大日本帝国陸軍軍人。東久邇宮稔彦王第1王子。母は、明治天皇第9皇女の聰子内親王。皇籍離脱前の身位は王で、皇室典範における敬称は殿下。弟に師正王、粟田彰常侯爵、多羅間俊彦がいる。大日本帝国陸軍での階級は陸軍少佐。勲等は勲一等。なお、盛厚王自身は「東久邇宮」を継承してはいないが、慣例に従い「東久邇若宮」と呼ばれることもあった。明治天皇は祖父、大正天皇は伯父、昭和天皇は義父(妃成子内親王の父)であり母方の従兄にもあたる。また香淳皇后は義母(妃成子内親王の生母)であり父方の従姉にもあたる。第125代天皇・明仁(上皇)は従甥にあたり、第126代天皇・徳仁(今上天皇)・秋篠宮文仁親王・黒田清子の伯父(伯母の夫)。
生涯
学習院、陸軍士官学校予科を経て1937年(昭和12年)6月陸軍士官学校を卒業した。同年8月陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附を命ぜられ、陸軍将校として勤務する。1939年(昭和14年)、同連隊の第1中隊長時代にノモンハン事件に動員され、7月18日に戦場に着任したが、戦況が悪く、宮内省の属官が戦死したことなどもあり、7月27日には8月の定期異動を待たずに戦場離脱に至った。1943年(昭和18年)10月13日、昭和天皇第1皇女の照宮成子内親王と結婚した。その後、陸軍砲工学校、陸軍大学校を経て、第36軍情報参謀を任ぜられるが、任務中に終戦を迎えた。
1945年(昭和20年)11月29日、昭和天皇から他の皇族とともに歴代山陵への代拝を命じられる。目的は、歴代各陵に対し戦争の終熄へのお詫びと日本の復興に対する御加護を祈るためであり、同年12月6日に東京を出発して土御門天皇陵をはじめ京都府下の22陵、および弘文天皇陵に参向。同年12月10日の朝に帰京して、昭和天皇に復命した。
1946年(昭和21年)、一般受験生に混じって東京大学を受験したが不合格となり、「昔なら無条件入学なのに」と話題となる。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍を離脱し(旧皇族)、「東久邇 盛厚(ひがしくに もりひろ)」と称することとなり、その直後に公職追放となる。皇籍離脱後、今度は聴講生として東京大学経済学部に3年間学び、民間人として再出発する。北海道炭礦汽船社長室勤務の後帝都高速度交通営団監事等を務めた。また、1959年(昭和34年)には日本狆クラブ会長に就任する。1人目の妻である照宮成子内親王(東久邇成子)との間に5子(3男2女)がいるが、1961年(昭和36年)7月23日に死別した。その後、寺尾幸吉の長女・寺尾佳子と再婚し、2子(2男)がある。1969年(昭和44年)2月1日、肺癌のため、死去した。52歳没。
栄典
- 1937年(昭和12年)8月12日 - 勲一等旭日桐花大綬章
- 1940年(昭和15年)4月29日 - 功四級金鵄勲章
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章
系図
数字は代目。橙色背景は皇籍離脱した時の11宮家当主。※東伏見宮依仁親王は離脱前に薨去。
子女
成子妃との間に5子。
- 第1王子:信彦王(1945年3月10日 - 2019年3月20日)。
- 第1王女:文子女王(1946年12月22日 - ) - 大村和敏、次いで高木代々吉夫人。
- 次男:秀彦(1949年7月29日 - ) - 壬生基博(みぶ もとひろ)として養子入りし改姓名、壬生家第12代当主、山階鳥類研究所理事長。
- 3男:眞彦(1953年2月1日 - )。
- 次女:優子(1954年 - ) - 東作興夫人。
佳子夫人(旧姓:寺尾)との間に2子。
- 4男:厚彦(1966年 - ) - 寺尾家養子。
- 5男:盛彦(1967年6月13日 - )。
年表
脚注
注釈
出典
関連項目
- 東久邇宮記念会
外部リンク
- 日本ペット学会>東久邇宮盛厚殿下と「日本ペット学会」について - ウェイバックマシン(2004年5月4日アーカイブ分)
- ウィキメディア・コモンズには、盛厚王に関するカテゴリがあります。